2013年10月1日 尉殿神社 例大祭




尉殿神社は上保谷村の鎮守。
保谷には古くから二之宮の神輿講中があります。
この講中の記録は江戸時代にまで遡るものです。
 

参道には沢山の露店が並びます。
しかしここの祭礼は10月1日固定で行われるもの。
都民の日で、以前は学校も休みでしたが、いまはそういうこともなく。。
露天はここをハネると杉並の井草八幡に行くそうです。
 



で・・・。
 

これが先代の二之宮神輿です。
保谷の講中は先ほど書いたとおり江戸時代の文献にはその名が載っています。
弘化元年には二ノ宮御輿守保谷新田講中と記載があります。
太鼓の講中は御先払を除いて明治になってからのところが多いのですが、神輿は古くからの講中がそれなりにありました。
二之宮では保谷新田の他、神奈川というのも挙がっています。
保谷の講中は大正になって神社がまとめた書面でも確認できます。
こうした縁から、昭和9年に現在の二之宮神輿が完成すると、こちらにこの神輿は譲られたようです。
今回お邪魔した際に居られた方も、子供の頃に府中に来たことがあると言うことでした。
父上や兄上は神輿を担いでいたようです。
おそらくは60年程前の話と思われます。

 

こちらはこの神社の大太鼓。
 
























太鼓は明治13年。「明治十三庚辰年九月」と読めます。
色々見てますが、この時代にこのサイズの太鼓は非常に珍しいです。
台車の方は見たところ何も書かれて無く、同じ時期のものであるかは不明です。
こうした太鼓車が当時あったのかというと、まだ無かったのではないでしょうか。
在ったとしても、当時が出来はじめの時期と思われます。
考察するに、この台車はカエシの構造などからするに、後年になって作られたものと思われます。
これはもう一点証拠があります。
写真をよく見ると太鼓を台車に乗せた状態で、正面位置が変です。
「氏子中」の文字が上にずれています。また、後ろ面の年号が妙に下に回り込んでいました。
文字の位置関係からすると、太鼓は本来の固定位置から少し回転していますね。
なぜキチンと載らないのか?
太鼓の前部下側の環が、本来は真下に来れば文字の位置関係は正常になりそうです。
つまりこの環が邪魔で正面位置が出せないことになります。
このことから、この台車は後付けである可能性が高そうです。
環の位置からすると、そもそも、この太鼓は台車の使用を前提としていない作りと思われます。
最初は担いで使っていたのではないでしょうか?
太鼓の大型化と、太鼓車が製作されてからの過渡期の様子を表しているように思えます。
なお、太鼓には宮本の銘板がありますが、恐らく張替のときのものでしょう。
明治13年にはまだ宮本は浅草に来ていません。
 










この神輿は昔は真っ黒だったと言います。
それを、群馬の方の神輿屋に直しに出したら赤く塗られてしまったと言います。
この真っ黒というのが元々の色かどうかは不明です。
ただ、飾りの真鍮などの処理も良くなくて不満と言うことでした。
 
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