御霊宮神輿
明治30年ころに新調。 非常に珍しい、唐破風の屋根を持つ変わった形式の神輿。 御霊宮は、他の7基の神輿とは異なり、おいでの際に甲州街道を渡御しない。 この神輿のみは、御本社に続いて随神門を出たあと、大鳥居までは他の神輿と同様に進行するが、そこで引き返す。 そして再び、随神門の前まで戻り西側へ向かい、西側の鳥居を出て鎌倉街道を御旅所まで向かう。 そして御旅所への入り口も、他の神輿が使用する北門ではなく東門より入る。 古くは現在の旧甲州街道が通っておらず、どの神輿も現在の御霊宮と同じように進行したといわれ、古い渡御の形を残しているのだとも言われる。 また、御霊信仰という、怨霊に対する信仰を元にした御霊会というものがあったとのこと。 暗闇祭りとは別のお祭りだったものが暗闇祭りと合わさり、御霊宮の渡御となったとも言われている。 御霊宮は本町中組が分担している。 本町は名が示すように宿場の中でもっとも古く、府中街道に沿った町である。 これは、古くは甲州街道より、鎌倉街道(相州街道とも呼ばれていた 現在の府中街道)が大きな街道であり、府中は多摩川を背にした鎌倉の北の守りの要衝となっていたためである。 御霊宮が渡御する道筋は本町の中であり、それ故に本町が自然と奉仕するようになった物と考えられる。 先代の御霊宮神輿も唐破風の屋根を持っていたそうだ。 ただ、唐破風でも本当に、小さなお宮をそのまま神輿にしたような形である。 この古い神輿のものであろう設計図がある。府中市史1161ページの269図がそれである。 明治23年4月5日府中町町田の署名がある。 この古い神輿は八幡宿の原で掛合いで壊されてしまった。 屋根は取り外し式だったといい、この屋根が少なくとも昭和初期まで残っていた。 古い神輿はかなり小さかったらしい。 |
御霊宮
大国魂神社 東京都府中市鎮座 (旧官弊小社) 祭神:大国魂大神 御霊大神 国内諸神 小野大神 小河大神 氷川大神 秩父大神 金鑽大神 杉山大神 御霊宮は御霊信仰によるものという説があり、無念を抱いて死んだ人が怨霊となるのを慰めて防ぐという事らしい。 また、御旅所において御霊宮に備える神饌が八つであることから、素戔嗚尊だとも言われるそうだ。 というのは素戔嗚尊には八人の王子が居たからだそうで、東京の八王子の名の由来もここから来ているという。 八王子の歴史を紐解くと、元は北条氏照が八王子に城を築き、ここに八王子権現を城の守り神として置いた事に始まるという。 八王子権現=牛頭天王(ごずてんのう)で、この牛頭天王は素戔嗚尊と同一とされることから、上記のような解釈がなされるのであろう。 さらに、江戸名所図会等の資料によると、六所宮には大己貴命の父祖の神として素戔嗚尊を合わせ祀るという記述が有る。 だから、これもあながち間違いとはいえぬのではなかろうか。 他に御霊宮に関しては、主祭神である大国主命の妃神、または妾の神という話がある。 筆者も子供の時分には祖父よりこの話を聞いたことがある。 御霊宮は大国主命のお嫁さんの神様であると。 小さい子供に妾ということは伝えづらかったであろうから、妾を妻に置き換えて説明した可能性も高いだろう。 代々大国魂神社の宮司家を務める猿渡氏が大正時代に書いた「武蔵国府名蹟誌」に、「古老の伝説に下女郎ともいい手、本宮大國魂大神の妃神なる由伝ふれど、今確証なければ、之を詳にすること能ず。」 と、書いてあるので確かにそういうことも言われているが、これも定かではあるまい。 ・御霊信仰について 2005/1/7追記 八所御霊という言葉がある。これは京都の上御霊神社、下御霊神社という神社の祭神がそれぞれ八柱であることからである。 上御霊神社:桓武天皇、早良親王、他戸親王、井上内親王、藤原吉子、橘逸勢、文室宮田麻呂、菅原道真、吉備真備を祀る。 下御霊神社:平城天皇、早良親王、伊予親王、藤原吉子、橘逸勢、文室宮田麻呂、菅原道真、藤原広嗣、吉備真備を祀る。 京都の上御霊神社も下御霊神社も、御霊という名をそのまま使うところから解るとおり、御霊信仰の神社である。 この両神社の祭神が両方とも八というのは、大国魂神社の御霊宮神輿に備える神饌が八膳である点と一致しており、興味深く感じられる。 また、京都の祇園祭も、明治維新以前は祇園御霊会を略して、祇園会と称しており、御霊信仰の一つであった。 この祇園会は、八坂神社の祭礼であり、その祭神は牛頭天王である。ここにも大国魂神社の御霊宮に奇妙な一致を見る。 牛頭天王は素戔嗚尊と同一とされていることは前述しているが、これは疫病の神様であり、これを祀ることで疫病から逃れようとしたものである。 |