八幡町八幡町 昭和26年製作 昭和61年大改修 平成9年彫物追加 二代目(昭和61年 改修前) 八幡町の囃子は昭和8〜9年頃より始められたものという。流派は船橋流である。 当初は荷馬車に、組み立て式の舞台を作って引き回していたとのこと。 これは戦後まもなく、破風板が電柱に触れて舞台部分が倒れて壊れたという。 その後、土地の大工の細谷氏に頼んで製作したのがこの山車で、現在の姿に改修する際にはいったん解体され、大掛かりな工事を行なった。 この解体の際、使用しない部材の一部は欅若連の山車に引き継がれている。 現在の山車は写真のごとく彫り物が非常に多く、豪華な作りとなっている。 高欄、前部柱には龍。後部の明かり取りは天の岩戸と因幡の白兎など多くの彫り物が取り付けられている。 八幡町は元々は六所神領とされた八幡宿村であり、宿とはつくが農村であった。 天正19年11月に徳川家康は六所宮(現在の大国魂神社)に対し神領500石を寄進した。 この神領は府中三宿の東の地にあり、これが八幡宿村である。500石の配分は、300石が宮司である猿渡氏へ、200石は禰宜社僧以下への配分だった。 宝暦10年には、朱印地500石は実高で554石余あったとされる。 記録によると、化政期には民戸87戸が八幡宿と京所に散在。 明治5年の資料によると、八幡宿は114戸から成り、そのうち25戸は、旧神官で字京所に居住。八幡宿村の1小字集落をなしていた。 明治において、本町、番場宿、新宿と合わさり府中駅を構成、府中四ヵ町の1つとなった。 |