御本社神輿
昭和48年製作 大国魂神社の御祭神である、大国主命を祀る。 八基中唯一の白木作りであり、大国魂神社の欅材を使用して作られている。 渡御の際にライトを浴びると黄金色に輝き、その姿は神々しさを感じさせる。 御本社神輿は番場の分担となっており、現在は西馬場と屋敷分もそれに加わっている。 この御本社は、昔は暗闇祭りで御本社に奉仕するというのは大変な名誉のこととされた。 5日の渡御の際に御本社が御旅所前に到着するころ、まだ五・六之宮も御旅所には入らず、狭い交差点内を3基の神輿が押し合うように練る様は見物である。 ちなみに、先代神輿も白木作りで、府中市郷土の森の博物館に保存されている。 この旧御本社神輿も、毎年郷土の森梅祭りで郷土の森園内を渡御する。 なお、旧三之宮は同じく郷土の森に、旧四之宮は大国魂神社宝物殿の二階に保存されている。 御本社・一之宮を分担する番場宿は、旧甲州街道を大国魂神社から西へ行くその街道筋である。 これは現在の町名でいう、宮西町と片町を含む大きな地域である。 旧町名でも、番場町・神戸町・片町等をあわせた規模となる。 従って、番場宿として一之宮・御本社のお神輿のお世話をさせていただいていることになる。 番場宿には神戸と片町が小字として上がっている。 番場宿のなかで番場(片町含む)と神戸(現在の西馬場を含む)がそれぞれ別れており、神戸は一つの集落としてのまとまりがあったと考えられる。 そして片町は、番場の住人が土地を多く持っており、耕作地になっていたりしたため、戸数は少なかったようだ。 屋敷分は屋敷分村といい、浅間神社を氏神とする氏地外であるが、明治12年12月に廃村届けを出して府中駅に合併。 以降は一部の人々が講中として御本社に参加していたが、昭和53年からは全自治会が参加となり、この時点より正式に参加することとなる。 ちなみに、新宿は大国魂神社を挟んで東へ行く甲州街道筋で、さらに東に行くと八幡宿村(現在の八幡町)となる。 本町は、府中街道(古くは鎌倉街道)に沿った町であり、甲州街道以前から府中の町を形成する古い町並みである。 このような町区分は今も生きており、府中では現在の行政区分と違った自治会の組織が出来上がっている。 これも1つの府中の特徴と考えられる。 |
御本社
大国魂神社 東京都府中市鎮座 (旧官弊小社) 祭神:大国魂大神 御霊大神 国内諸神 小野大神 小河大神 氷川大神 秩父大神 金鑽大神 杉山大神 人皇第十二代景行天皇四十一(西暦111年)年五月五日大神の託宣に依って創立された。 出雲臣天穂日命(のおみあめのほひのみこと)の後裔が初めて 武蔵国造(くにのみやつこ)に任ぜられ当社に奉仕。 その後、代々の国造が奉仕して その祭務を掌られたといわれ、その後、孝徳天皇の御代、大化の改新のとき、武蔵の国府をこの処に置くようになり、 当社を国衙の斎場とし、国司が奉仕して、国内の祭務を総轄する所にあてられた。 又、国司が国内社の奉幣巡拝、又は神事執行等の便により国内諸神を配祀した、 これが即ち武蔵総社の起源である。 後に本殿の両側に国内著名の神、六所[ろくしょ](小野大神・小河大神・氷川大神・ 秩父大神・金佐奈大神・杉山大神)を奉祀して、六所宮とも称せられるようになった。 寿永元年(1182)に至り、源頼朝が葛西三郎清重を使節として、 その室、政子の安産の祈願が行われた。 文治二年(1186)頼朝は武蔵守義信を奉行として社殿を造営し、また貞永元年 (1232)二月、将軍頼経の代にも武蔵守資頼を奉行として社殿が修造せられた。 又、天正十八年(1590)八月、徳川家康が江戸へ入城してからは、 武蔵国の総社であるために殊に崇敬の誠をつくし、社領五百石を寄進され、 社殿及びその他の造営に心力をつくされた。 正保三年(1646)十月、類焼により社殿は焼失したが、寛文七年(1667) 将軍家綱の命により、久世大和守広之が社殿を造営し現在に至る。 形式は三殿を横につらねた朱塗りの相殿造りで、屋根は流造りであるが、 慶応年間に檜皮葺[ひわだぶき]が銅葺に改められた。 又、本殿は都文化財に指定されている。 明治元年(1868)勅祭社に準ぜられ、同七年(1874)県社に列し、 同十八年官幣小社に列せられた。 現在のご祭神は上記の通りであるが、古い資料によると創建に関して以下のように記載され、以下の神様となっている。 第十二代景行天皇四十一(111)辛亥五月五日、大己貴命この小野郷に出現。 神託により祠を経営して里人崇敬し奉る。大麻止之豆之(おおまとのつの)天神これなり。 その後成務天皇5年乙亥、兄多毛比命(えたけびのみこと)をしてこの国の国造たらしむ。 兄多毛比命は天穂日命の孫出雲臣祖、名は二井宇迦諸忍之神狭命(ふたゐのうかもろをしのかんさのみこと)の十世孫なりとあり。 大己貴命はこの地出現の霊神なればこれを祟み、その祖神なるをもって素盞鳴尊を合祀しするという。相殿に伊弉諾命、瓊瓊杵尊、大宮女神、布留大神とする。 大己貴命(おおなむちのみこと)、素盞鳴尊(すさのおのみこと)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、大宮女神(おおみやのめのかみ)、布留大神(ふるのおおかみ) 客来三神として、天下春命(あめのしたはるのみこと)、瀬織津姫(せおりつひめ)、倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ)。 大己貴命は大国主命の別名。素盞鳴尊は大国主命の父神。 伊弉諾尊は素盞鳴尊の父神。 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫で、神武天皇の曾祖父。 大宮女神は天鈿女命(あめのうずめのみこと)の別名。 布留大神は饒速日尊(にぎはやひのみこと)の別名で、本来の名は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこ・あまのほあかり・くしたま・にぎはやひのみこと)。 この神様は素盞鳴尊の5男とされており、日本建国の草分け的存在で物部氏の祖神。 大麻止之豆之天神は、天神と言っても菅原道真公を祀る天満宮とは異なる。 武蔵国多磨郡の延喜式内社8座の1つで、大国魂神社の他に稲城市鎮座の「大麻止乃豆乃天神社」と青梅市鎮座の「武蔵御岳神社」等が式内論社になっている。 大国魂神社が大麻止之豆之天神という文献は、享保21年の『武蔵野地名考」が初見であるようだ。 しかし、他に証拠となるものもなく、根拠が薄いといわれている。 府中市内には天神山とと呼ばれる小山があり、そこに祀られていたお宮が大麻止之豆之天神ともいわれている。 このお宮を大国魂神社が吸収した等の説もあるが、これも根拠のある話ではなさそうである。 ただ、どこで聞いた話かは分からぬが、大国魂神社は幽霊であるという話がある。 と、いうのは、本当の大国魂神社はとっくの昔に小さくなって潰れてしまったという話だ。 合法的に合祀されたのか乗っ取ってしまったのか、もしくは潰れたあとに勝手に名乗ったのか。 それは解らぬが、潰れてしまったが由緒あるその名前を引き継いで使っているのが今の神社という説があるそうだ。 もっとも、これは筆者も口伝えに聞いたのみで不確かな話だ。 しかし、このホントの大国魂神社というのが大麻止之豆之天神だったとすると少し面白い話になってくる。 神社の格付けや祭神に関しては、権力の移ろいによって変化してきている。 神社や寺院といったものは、その性質上、スポンサーとなるのは権力者である場合が多いからであろう。 また、古くは政治と宗教が結びついていた側面もある。 その地を支配する者の移り変わりや都合により、変化を免れないもののようである。 古くは大和朝廷の時代から、新しくは明治維新の際に、各地の神社で祭神の書き換えが行われたという話も聞く。 このあたりも深く掘り下げると面白そうである。 |