大国魂神社 御本社御太皷


 
御本社御太皷


 
分担は御本社太皷講中(小金井市貫井を中心とした5つの講中)
現在、大国魂の6張中もっとも小さい。
この太皷は、3代目となり昭和27年製作で国産欅胴。今これだけの欅材を手に入れるのは相当難しいという。
新調の理由は喧嘩で悔しい思いをしたからだという。
他の太皷が大きくなってきて、喧嘩でぶつけ合うと当たり負けをして転がされてしまうようになってしまったのである。
太皷の喧嘩は、太皷を後ろ向きにして、相手の太皷に突進させて相手の太皷にぶつけるのである。
そういう方法を採っていたが為に、実戦的理由もあって巨大化したのだろう。
決定的だったのが、戦後まもなく起きた四之宮神輿との衝突事件で、これをきっかけに新調をした。
製作は浅草の宮本。皮の張り替えは岡田屋布施にて。
台車は町内有志により寄贈。
なお、この太皷の上にはかつて35人も乗ったことがあるとか。
その方法は、まず、大太皷の四隅に4人が胡座をかいて座る。
その四人の中に乗っていれば、何人乗っても落ちることがなかったというのだ。
現在乗るのは、多くて十数人程度がせいぜいである。
 
 
 
現在、御本社太皷講中として実際に参加しているのは6つの講中だが、太皷の上乗りが使う大警固には以下の講中名が残っている。
小金井貫井     : 東京都小金井市
小平市廻り新田   : 東京都小平市
小平上鈴木     : 東京都小平市
小平堀端鈴木    : 東京都小平市
小平下鈴木     : 東京都小平市
小平小川山谷    : 東京都小平市
小平小川新田    : 東京都小平市
小平通り野中    : 東京都小平市
小平堀端野中    : 東京都小平市
都築郡山内村石川  : 神奈川県横浜市青葉区
都築郡元石川町保木 : 神奈川県横浜市青葉区
都築郡向岳村平   : 神奈川県川崎市
大泉村小樽     : 東京都練馬区
埼玉県片山村栗原  : 埼玉県新座市
神代村入間     : 東京都調布市
保谷町下保谷    : 西東京市
小平大沼田新田   : 東京都小平市

貫井は小金井市の貫井で、太皷講中の元講をなす。太皷長は貫井が務めている。大祭の前には講中周りという行事を行うが、御本社太皷講中には番場から貫井へ使者が赴き、それを受けて貫井から各講中へと使者が走ったのだということである。
 
小平の各講中がある鈴木新田は貫井を親村として開拓された村であり、その名の通り貫井の名主の鈴木氏が中心となって開発したものらしい。上鈴木、下鈴木、堀端鈴木などがこれに含まれ、その縁もあって参加しているものと考えられる。講中の組織が広がる過程はさまざまであろうが、親類や姻戚等の縁故を伝ってゆく場合が多いと推察される。親子関係のある村の場合、そういった親類が住んでいる場合も多々あるであろうから、元講となった貫井からこの辺の縁故関係を中心に広がっていたものと考えられる。また、小川や野中といった地域は先述の上鈴木とも近く、また江戸期に玉川上水が開通したことによって開発された村という点で共通性が多く、これもまた非常に交流の起こりやすい地域であったと推察される。
 
都築郡元石川町保木は現在のたまプラーザ駅の近くで、このあたりの鎮守は十社宮である。ここには「保木の大太皷」と称するする太皷があり、これは地域の人が御本社太皷講中として府中に来るうちに、刺激を受けて作られたものと考えられる。
一部ネット上などの記述で、この保木の大太皷が大国魂神社例大祭に参加していたという記述があるが、これは間違いである。あくまで地域の人たちが講中として御本社太皷に参加していただけで、この太皷を持ってきていたという事実は無い。
 
都築郡山内村石川も元石川町保木とほぼ同じ地域を指すと考えられる。
 
都築郡向岳村平は調べたところ、都築郡に該当する村名を見つけることは出来ず、提灯への記載ミス等を考慮して検索範囲を広げた結果、橘樹郡(たちばな)の向丘村(むかおかむら)の平地区と推定できた。古くは平村と呼ばれて一村をなし、その後合併により向丘村平となった。向丘村はいまの川崎市の高津区、多摩区、宮前区にまたがる地域で、向ヶ丘遊園(すでに閉園)は元々は向丘村の名からとったものである。
 
大泉村小樽と書かれているのは東京都練馬区、いまの大泉学園のあたり、西大泉に小榑村(こぐれむら)という村があり、この地域であろうと推察される。この地域は埼玉県の新座市に隣接した地域で、一時は新座郡(にいくらぐん)に属していたこともある。
 
埼玉県片山村栗原は、いまの埼玉県新座市でここにはまだ栗原の地名が残る。西東京市に隣接し、練馬とも近い。
 
保谷町下保谷はいまの西東京市で、以前は保谷市だった。ここは先述の片山村栗原や大泉とも近い位置になる。
 
 
昔は各自バチを持ってきたと言うが、現在、使用できるバチは2膳で、神社の焼き印がある物のみ使用できる。
おいでの時だけは2膳使用して太皷の両面打ちが許可されるが、お帰りは1膳だけで片面のみ打てる。
町内廻りも同様で、片面打ち。
これは他の宮ではすでに守られていないところも多いが、御本社の太皷は絶対これを守っている。
 
御本社の先代の太皷については、明治32年製作。
昭和27年に現在の太皷が出来た後は小金井の貫井神社に行った。
初代の太皷は一時貫井に行き、そこから鈴木新田に行ったという。
 
以下、2002/6/1追記(本町上組 おおたきさんからの情報より)
小金井山王稲穂神社の太皷は、御本社太皷の兄弟の太皷であるとのこと。
同じ欅より作られ、御本社太皷は木の下の部分で、小金井山王稲穂神社の太皷は上の部分だという。
根に近い御本社太皷がお兄さんで、小金井山王稲穂神社の太皷が弟というところか。これもまた面白い話である。
 
以下、2007/10/15追記(筆者追記)
世田谷区喜多見 氷川神社の太皷も、御本社の太皷の兄弟にあたるという。
山王稲穂の太皷が南部屋で昭和25年製作であるのに対し、喜多見の太皷は宮本で昭和27年製作どちらも4尺程度。
可能性としては、同じ太皷屋で作られた喜多見に軍配が上がるのではないかと思われる。


 
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