片町片町の山車。 江戸期製作。 元は砂川十番の前新田(現在の立川市)の山車。大正11年購入。 府中でも新宿の先代の山車も元は砂川村(八番)のものであった。 砂川は養蚕で栄え、繭大尽と呼ばれるほどの者が居た。 砂川は一番組から十番組まで分かれており、各組に山車があった。 一説には飛騨の高山から職人を呼び、金に糸目を付けずに作らせたものだという。 この、片町の山車も番場の山車と同様に、昔は「一本柱人形山車」であったという説がある。 また、現在は異なるが、以前は組み立て式で祭礼の前に組み立てていた。屋根も障子屋根であった。 他にも、番場が過去に借用したこともある、所沢市御幸町の山車もこの砂川村のものであった。他、砂川の山車は瑞穂町や飯能などで使用されているものがある。 なお、片町の囃子は、番場から伝えられたもの。 それ以前の片町は狛江市の小足立から囃子連を呼んでいたという。 片町とは甲州街道南側に高安寺の寺域が広がるため、北側にしか町がなかったためこのような名前になった。 片町は番場宿の一部で宿の外れに位置しており、西側は屋敷分村に接する。土地も番場宿中心部(番場町)に住む人の耕作地などが多かったという。 このため、明治中頃までは人口は多くなかったようで、当時の記録を見ても神輿新調の分担金などは番場と神戸の分担のうち番場分に含まれていた(神戸は当時から宿内の一集落として分担金を負担していた)に含まれていたが、後に別れて番場、神戸、片町で分断するようになった。 |