村田屋利左衛門 由来

村田屋とは昭和40年代のはじめ頃まで番場宿にあった旅館である。
「諸国商人御宿」の看板を掲げた旅籠屋である。
江戸期当時の府中宿にあった他の店と同様、耕地をもち半農半商の形態をとる。耕地は七反(一反=300坪・七反=2100坪)と、耕地としてはさほど多くはない。
当家は姓を下村と名乗っており、公に名乗ることが出来なかった江戸期にも隠し姓として姓が伝わっていた。
古い墓石などにも下村氏と刻まれている。
当主は代々「利左衛門」を名乗り、子息には「仙」の字を用いて、長男から「仙太郎」次男は「仙次郎」と名乗る習慣があった。
明治になるまで名乗り名を継ぐ慣習は続いており、天保六年の府中の大火の後の被害帳や弘化二年頃の書類にも番場宿の旅館主人として利左衛門の名が残されている。
なお、これら名乗りに関しては本来はあくまで通称であり、別に諱(イミナ)を持っていた可能性がある。
下村家が府中に移り住んだ時期の詳細は不明だが、墓所には現在判明しているもので元禄2年(1689年)の年号を刻んだものがあることから、その頃だと思われる。
言い伝えによると元は九州の出というが、これを裏付けるように九州には下村氏が多い。
九州にある下村姓で有力なものには、桓武平氏と藤原氏の流れがある。
桓武平氏から出た秩父氏(武蔵七党秩父党)の流れで、相模国渋谷庄に領地をえていた渋谷氏が薩摩にゆき、そこから入来院氏(この系譜は薩摩の大名家島津家とも繋がる)へと分かれたうちから下村氏が出ている。
肥前国では、藤原氏より出ている少弐家の一門にも下村氏を名乗るものもあり、あるいは時代が下がって龍造寺家、鍋島家の家臣などにも同じく下村氏が見られる。これは少弐家の一門に繋がるものであろうと推察される。
村田屋が旅館を営んでいた古い屋敷は江戸の末の造作と思われ、おそらく天保六年の大火の後再建したものではないかと思われる。
この建物には言い伝えがあり、裏手に位置した座敷は侠客「小金井小次郎」の家を移築したもので、甲州街道を引っ張って持ってきたのだというが、信憑性は定かではない。
明治から大正への時代、宿としては諸国商人はもちろん、多摩川を筏で下る筏師の宿などにもなっていたようだ。
昭和初期、この宿で例大祭での最後の賭場がたったという。
博打は裏にあった蔵の二階で行われていたといが、このときは手入れが入り、旅館の主人であった下村長吉も縛された。
六所明神の祭礼では江戸期から連綿と賭場の開帳があり、ここに府中宿の時代からつづく祭りの開帳は絶えた。
その後、10日ほどして家に帰った長吉は、蚤や虱にたかられ、酷い姿であったという。
昔の牢の中の衛生状態が想像できる話である。
なお、下村長吉は25年に渡って番場町の総代を務めたといい、後には府中町議会議員、府中町議会議長、初代府中市議会議員を務めた。
村田屋は府中の番場宿に残る家としては、古い家の一つといえよう。
 

昭和9〜10年頃。村田屋で撮影された一家の写真。
前列左より二番目が長吉。その右が妻フヂ。

 
 
※注
諱は忌み名とも書き、同等者や目下の者が、相手をこの諱で呼ぶことは許されないため、通称を使用した。通称の例としては弾正忠や三河守といった官位名を使う例があり、また、官位がない場合は、彦左衛門、太郎、次郎など、××右衛門、××左衛門、××兵衛、×太郎等はいわゆる通称として使われた名である。
※諱の例を挙げるとするならば、家康や信長、秀吉などの名は諱に相当する。
当時たとえ同位に位置する者でもこの名で呼びあうことはなく、家康であれば三河守殿あるいは三河守に任じられる前は、次郎三郎殿と呼ばれたものであり、また、信長であれば弾正殿、秀吉であれば筑前殿・籐吉郎殿などと通称で呼ばれていた。
諱はたとえば朝廷に書面を提出するときなどにのみ使用され、「源朝臣家康」「平朝臣信長」「藤原朝臣秀吉」などと称した。


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