くらやみ祭り 西の山車 (府中囃子 目黒流)

くらやみ祭に参加している山車で、府中の西側に所属するものを紹介する。

本町

本町山車
本町の山車。昭和45年製作。
先代は本宿へ譲る。
本町は府中では最も早く囃子を始めたとのことで、歴史は明治36年頃に遡るという。
それ以前は、本町では青梅から、番場では貫井から囃子手が来て、居囃子を行っていたという。
本町から始まった府中の囃子は、番場へ伝わり、さらに片町へと伝わる。
その後、本町からは本宿、矢崎、南町、中河原などへも伝えられている。
山車を導入したのも、本町と新宿が早かったということで、大正5〜6年には町内を引き回していたとのこと。
本町の当時の山車は、町内在住の大工の手によるもので、牛に引かせて、手古舞等を先頭に行列していたらしい。
 
本町は府中三ヵ町の1つで、府中宿ではもっとも古くから宿場としての様相を整えていたという。
府中宿の本陣があったが、天保6年の大火で焼け、その後は番場宿の脇本陣が本陣役を代行していたという。
天保12年頃の資料では旅籠1軒 飯売旅籠1軒を数える。
明治において、番場宿、新宿、六所神領(八幡宿)と合わさり、府中四ヵ町の1つとなった。

番場

番場山車
番場町の山車。
明治期製作。立川市曙町より購入。 昭和58年5月大改修(伊藤工務店)
現在の山車は番場としては3代目。
この山車は明治期製作というが、一説によると、新調は瑞穂町の殿ヶ谷あたりではないかという説もある。
話によれば、当初は一本柱を建てられるようになっている「一本柱人形山車」であったという話もある。
番場にきたいきさつも面白い物で、昭和39年に立川の砂川九番のガソリンスタンドの近くに、売り札をつけて置いてあったという。
持ち主は曙町で、山車小屋の地所が売りに出されたため、売却されることになったようだ。
当時25万円で売りに出ており、これを囃子のテープを寄贈する条件に22万5千円に値切って買った。
この交渉などは、当時の青年だった中村登氏が行っており、それも町内に話をせず、独断で借金をして買ったという。
当時、町内ではこれを聞いて慌てて会合を開いたが、その会合をしているとき、すでに山車は青年の手で購入が決められていた。
その後、一晩かけて立川から引いてきたというが、この道中もなかなか大変だったようだ。
山車は昭和58年に大改修をして、車台を少し上げて彫り物などを追加し、5月1日に、披露目(当時:忠実屋駐車場にて)を行った。
ちなみに、番場の初代の山車は昭和12〜13年頃に製作された。
町内にある、関田材木店の蔵を壊す際に、その梁等をもらい受けて製材し、伊藤氏を中心に製作したとのことで、組み立て式の物であったという。
その後、国立の祭礼(谷保天神?)に招かれた時、町内回りをして居たときに、なにかの弾みに転倒破損。
再び町内の大工が集まって製作されたのが2代目となり、3代目の山車を購入後、是政に譲り、現在は欅若連が使用している。
筆者は昔の山車は関田材木店の蔵に置いてあったと祖父からは聞いている。
これは最初の材料の提供から以降、組み立て式だった山車の部材を置かせてもらっていたのではないかと思われる。
番場に囃子が伝わった課程はというと、物の本によると番場の囃子は本町より伝えられたということで、時期的には昭和4年頃。
なお、それ以前は余所から囃子手が来ていたものだということで、府中の他の町でも自前の囃子連が出来る前は同様だったという。一説によると番場へは小金井の貫井から囃子手が来たといい、その縁もあって、一時中断した貫井囃子の再開の際には、番場から再伝授している。
大正13年の写真とされる古い写真に、番場の山車が写っているが、これは所沢からの借り物。
盛留をつけた姿から、所沢の御幸町の山車と思われ、写真で照合したところ一致した。
素晴らしい彫刻の山車である。
手古舞の姿も写っており、往時の山車行列の様子が偲ばれる。
ちなみに、御幸町の山車は現存し、所沢祭りで見ることが出来る。
 
番場町は府中三ヵ町の1つの番場宿であり、脇本陣があった。
天保期には旅籠13軒 飯売旅籠3軒を数える。筆者の家もそのうちの1軒である。
明治において、本町、新宿、六所神領(八幡宿)と合わさり、府中四ヵ町の1つとなった。

片町

片町山車
片町の山車。
江戸期製作
元は砂川十番の前新田の山車。大正11年購入。
砂川は養蚕で栄え、繭大尽と呼ばれるほどの者が居た。
一説には飛騨の高山から職人を呼び、金に糸目を付けずに作らせたものだという。
この山車も番場の山車と同様に、昔は「一本柱人形山車」であったという説がある
新宿の先代の山車も元は砂川村のもの。
他にも、番場が過去に借用したこともある、所沢市御幸町の山車もこの砂川村のものであった。
なお、片町の囃子は、番場から伝えられたもの。
それ以前の片町は狛江市の小足立から囃子連を呼んでいたという。
 
片町とは甲州街道南側に高安寺の寺域が広がるため、北側にしか町がなかったためこのような名前になった。
元は番場宿に含まれ、宿の外れに位置し、土地も番場宿中心部(番場町)に住む人の耕作地などが多かったという。
このため人口は多くなかったようだ。

本宿

本宿山車
本宿町の山車。
平成3年製作。村上市の細野氏による。氏は日展入選作家。
初代は昭和45年、本町より購入。
この山車が老朽化したため、平成になって新調した。
当時、最終的に古い山車は引くには危険な状態となった。
筆者も、本宿の囃子にいた友人から「大管(囃子に使う太鼓)叩くとな。山車が揺れんだよ。」と聞いたことがある。
なお、本町は本宿の囃子の師匠でもあり、本宿が参加している四之宮の元講でもある。
 
本宿は江戸期には本宿村といい、その名から古くは街道の宿地であったと思われる。
本宿村の東隣に位置する屋敷分村には「荒宿」の小名があり、この荒宿(あらしゅく)は新宿と同義である。
この地名は本宿村の本宿に対する、新しい宿という意味であった可能性もある。
筆者は江戸期における行政区割りよりも古い時代の名残ではないかと考える。
本宿村の小名には小野宮、間島、天神島等が見える。
江戸期においては府中宿が正規の宿場となっており、農業が主体の村となっていたようだ。
鎮守として熊野神社を祭り、現在の境内地の裏は上円下方噴という形式の、全国でも例の少ない古墳である。

けやき若連

欅山車
昭和61年新調 平成2年8月修復 平成8年彫物追加
昭和60年から61年にかけ、20周年記念事業として会員の手により現在の山車は新調。
この際、八幡町の山車の旧部材と欅若連の先代山車の部材を組み合わせて利用。
さらに、新部材と合わせて新たに欅若連の山車として製作されたものである。
欅の先代山車は昭和47年に市内の是政より購入。
是政に来る前は番場の山車。資料によると、先代山車は番場の町内の大工の手により製作されている。
これが番場が現在の山車を購入したため、是政に渡り、さらに欅若連へと譲られて来ている。
この山車は欅若連に来て後に老朽化したため解体された。
現在の山車の特徴として、鬼板には「けやき」の名が入っており、懸魚は波。
後部の明かり取り下部には平成8年に追加された、唐獅子牡丹の彫物。
同じく明かり取りの前後には、鯉の滝登り、獅子の滝上り・滝下しの彫刻が入っている。

南町

南町山車
南町の山車。
平成2年製作。本宿と同様、村上市にて作られた。
先代の山車は昭和51年の製作で、自動車のシャーシをベースにしていたという。
南町には、本宿から移住した人がおり、その縁で本宿から囃子を伝えられたという。いずれにせよ流れとしては本町の流れ。
昭和50年の結成後、昭和51年には山車を作って活動していた。

矢崎町

矢崎町山車
矢崎町の山車。
昭和58年製作。
府中宿本町の小名としてあげられた部落である。熊野神社を鎮守に祀る。
囃子は本町を師匠とし、昭和50年から囃子を始め、昭和58年に山車を完成させた。

屋敷分


屋敷分山車
屋敷分の山車。昭和62年製作。
屋敷分は屋敷分村という府中宿の隣にあった村である。浅間神社を鎮守に祀る。
古くは明治時代に廃村届けをだし、当時の神奈川県府中駅と合併を願い出た。
以来、昭和53年までは御本社講中として参加。53年より正式な参加となった。

中河原

中河原山車
中河原の山車。
昭和51年製作。平成6年改修。
改修前は比較的シンプルであったが、後は多くの彫り物に飾られている。
中河原は、部落鎮守として御獄神社を祀る。
囃子は昭和50年から始めたという。
師匠は本町の小沢敏夫氏・高野籐吉氏。
両氏はほかに南町や本宿、矢崎町など、市内の目黒流を多く育てた。

武蔵台

武蔵台山車
武蔵台の山車。
製作年度不明。一説によると昭和21年頃。
平成14年に調布市布田より購入。
屋根後部に高欄があり、昔は人形などが乗せられたのではないだろうか?
武蔵台のあたりは、筆者の祖父の頃は人家もごく少なく、怖いところというイメージがあったようだ。
その後、住宅地へと生まれ変わって、現在の姿となった。

寿町

寿町山車
寿町の山車。
昭和28年8月製作。平成15年に兵庫県神戸市東灘区柳より譲り受ける。
元はいわゆる「だんじり」で、府中に来てから舞台を延長して、屋根は銅葺きに改修された。
府中の山車の中では特異な姿であるが、遠くの町に来ただんじりも、さぞびっくりしたことと思われる。
寿町は古くは本町および番場に含まれる町であるが、この山車を持っているのは旧本町分となる町内である。