平成17年度 大国魂神社 例大祭

2005年5月3日

朝7時起床。朝食を摂る。
ふた切れ目に取りかかった頃、携帯電話が「テケテンテケテン」と鳴った。
我が携帯電話の着信音は「屋台(府中囃子目黒流 by欅若連)」に設定されているのだ。
携帯を取り上げると、果たしてその発信は本年初陣のR嬢であった。
我々の集まりに最近参加してきた女性である。
食事を中断し、R嬢を玄関まで招き入れて待って貰い、残りを平らげる。
支度をして、半纏を引っかけてお宮へと向かう。
道々、R嬢曰く、ユンケルを飲んだら気持ち悪くなったという。
道理で調子が悪そうだ。景気づけに栄養剤を飲んで、逆に気分が悪くなっては元も子もない。

お宮へ到着すると、みな盛んにやっている。宝物殿から次々に神輿が引き出される。
見ていて気分がいい。
なによりも、これから始まるという気分がたまらない。
初めて3日のこの時間帯にきたときからずっとこの時間が好きだ。
これからお祭りが始まると思うと、楽しくてたまらない。

今年は写真撮影等に専念をしていろいろと撮っていると四之宮が出てきた。
たびたびではあるが、四之宮がグリに戻した。
実によいと思う。
これも写真に納める。

そうこうするうちに御本社も準備が終わり、例年通りドン尻で本殿前に運び込まれる。
どうも3日の神輿は毎年重いような気がする。小人数のためであろう。
6日のお帰りも、御旅所から番場の会所までは重い。同様の理屈ではある。
ようやっと本殿前にはいると、本殿の前では、他の宮はすでに小屋掛けを行っていて、あわただしい。
本殿前で神輿の前に注連縄を張り、ワラビ手に紙垂をつける。

外へ出るとすでに太鼓は町内に向かったようだ。後追いで自分も町内へ戻る。
途中で太鼓に追いつくと、番場のANさんが太鼓を叩いている。
どうも妙で、右しか手袋をはめておらず、左手は使っていない。
太鼓が番場屋さんの前まで来たとき訊くと、すでに左手の指を切ってしまったらしい。
早すぎである。やむを得ずANさんは応急処置。
自分は公会堂へ向かい、太鼓関係者の接待準備をする。
別に今年は役ではないのだが、手すきなので出来る限り手伝うことにしているのだ。

とりあえず、お膳だけ並べてお茶の支度等々。
役割の顔合わせ等を聴きつつ、自分自身は役割は関係ないのでお茶入れに専念する。
これからお祭りだなぁとふと思う。

ビールの準備、そば・うどんの準備等を済ませ、後は太鼓のメンバーが来るのを待つ。
頼まれ物を持っていき、戻ってみるとすでに昼食は始まっていた。
この間、別件の頼まれ物を引き渡したり、1日の太鼓披露目の残務をこなす。

いよいよ、関係者も昼食を取れる段になり、ソバを手繰ることにする。
今年は昼食前に軽くやってきたようで、そばやうどんが多く残っている。
しばし、ビールを飲んで歓談す。

食事を済ませ、一休みする。そのうちに12時近くなったので、大工さんと電気屋さんを呼んで食事して貰う。
そのとき、大工さんから、テントがないから電気屋さんが取りかかれないといっていると聴く。
そこで、会所の設営に取りかかる。テントは一丁目の倉庫から出して運び、組み立てる。
ほか、祭壇の飾り付けや台所廻りの設営をする。必要な物を出し、並べてゆく。
今年は透明ケースをいくつか用意し、それに少しずつ物を移し替えることになった。
要は、段ボール箱に入れてあっては、何が入っているか判らずに困るというのである。
そうこうするうち、だいたい午後2時半から3時くらいであろうか。
提灯も出して、ようやく会所らしい形となる。

さて、いったん帰宅し平服の上に半纏を引っかけていたものを着替え、お祭りらしい格好になって会所へ戻る。
会所で座っていると、なんだかずっとそうしていたような感じがする。
これも毎年毎年そう感じる。一年間が夢のようで、去年のお祭りからずっとそうしているような。
お祭りが夢なのか、日常の生活が夢なのか。
どちらも間違いなく現実ではあるのだが、日常と非日常のその差が大きい。
なにか不可思議な想いが去来する。
多分、これもお祭りの醍醐味という物であろう。

なんだかこれも毎年書いているような気もするが、気にするのはやめよう。
だいたいこのページそのものがマンネリの極致でもある。
お祭りは毎年同じように同じことを繰り返す。
毎年写真を撮っていて思うのが、どうも去年の写真と今年の写真にあまり差がないことだ。
何せ同じ行事なのだから、それほど差が出ないのはやむを得ぬ。

閑話休題。
夕方となり、片町の山車が会所前を行く。屋敷分がしばしおいて続き、番場の山車も欅並木へと向かう。
するとさらに「いよいよ感」が増してくる。
こうなってくると鞭鞭と座ってはいられなくなってくる。
何となく立ったり座ったりする。
立ったり座ったりするうちに遠くから金棒の音が聞こえてくる。
シャンコンシャンコンという音が、意外と遠くから響いてくるのだ。
神戸と西馬場のお駒の行列である。
番場会所前で合流し、さらに西へと向かう。片町と屋敷分がそれぞれ加わる。
最終的には、屋敷分の伊藤家まで馬を迎えに行く。
待っている馬は東京競馬場の乗馬クラブの馬で、これは馬運車によって運ばれてくるのである。

馬を迎え、伊藤家により接待を受ける。主に御神酒とお新香だ。
一杯飲んでから、一行は馬を伴い今度はお宮へ向かうのである。
片町から番場を抜け、大鳥居をくぐる。
随神門から先、中雀門はくぐらずに、まずは左手から社務所前に入る。
社務所で騎手は着替えをすます。
今年は三之駒がドン尻だったようだ。すでに他の駒はそろっていた。

準備が済み、行列は一之駒から再びいったん外へ出て、今度は中雀門から入り直す。
拝殿前で並び、報告祭を待つ。
馬はどうしても落ち着きがない。甚だ迷惑の様子である。無理もないと思う。
普段と違うところに引き出されて、さぞかし怖い思いをしているであろう。
馬により差異はあれど、比較的落ち着きがない。

待つ内に報告祭も終わり、一之駒から順に欅並木へ向かう。
欅並木に入り、役員席に並ぶ。
またしばし待つうちに準備が整い、各馬一斉にゲートから・・・は飛びでない。
「×之駒行って参ります」と、騎手が声を上げて出発する。
駒くらべは、レースではなく馬の検分が原型だという。
よく「あそこを走るの?歩くんじゃないの?」と訪ねられるが、馬は歩かせるのではなく、あの狭いところを走るのである。
あの狭い欅並木を馬が相当なスピードで走るのだから、騎手も怖いだろうと思う。
今年の駒比べは二之駒が落馬したらしい。
ゴム路から飛び出てアスファルトの上まで行ってしまったためだとか。
馬も転んで痛かったろう。

馬が規定の回数往復すると、騎手から神官に報告が行われる。
例年はここから大鳥居に向かい、そこで四ヶ町代表から挨拶があるのだが、今年からは欅並木で挨拶を行う。
挨拶があった後、手締めをして解散。行列は神社へ戻る。

この後、自分たちは会所へ戻るのだが、今年は山車の写真を押さえて回る。
そして遅れて会所へ到着。これから会所開きである。
例年通り会所開きも済み、これにて初日が終わった。

2005年5月4日

朝食をとり、朝9時に会所へ行く。
会所の準備を済ませて、いったん着替えに戻り、ちょっと休んだら30分ほど寝てしまった。
きちんと着替えて会所に戻り、子供神輿の準備をする。
この子供神輿は相当古く、昭和30年代の物だ。浅草の宮本で作っている。
この神輿を作るとき、それまでの子供神輿が古くなったので一部の青年が奉加帳を作り、お金を集め始めたという。
それを、ある人物が止め、俺が話をするということで改めて町内で話をして宮本に発注したという話を町内の先達から聞いた。
実は最初に奉加帳を作って集めた時は、ある神仏具屋さんの後押しがあり、一杯ごちそうになって始めてしまったようだ。
結果、そこを袖にしてしまったことになり、これは後にも影響があったらしい。
奉加帖を持って回るのを止めたある人物というのは筆者の曾祖父のことらしいのだが、話者曰く「お祭りが好きな人でなぁ・・・」ということだ。
筆者にとっては見知らぬ人である曾祖父だが、お祭りを通じての繋がりというのは、ある種不思議な感じを覚える。

さて、子供神輿の準備を済ませたら、4日は例年のごとくカレーライスである。
しかしどうも、今年は花粉で鼻が詰まり気味なせいか、食欲がない。
今年は花粉がひどかった。喉まで炎症を起こしていて、扁桃腺が腫れて辛い。
どうにも食べるのがおっくうなのだ。
いつもならお代わりするのだが、今年は一杯でおしまいにした。
ひょっとすると、もうそろそろ、年齢的に食べられない時期に来ているのやもしれぬ。

さて、子供神輿は、これまた例年通り番場三丁目の神輿が来るのを待って出発する。
が、なにやら時間がかかってなかなか出ない。
そういえば、HPの写真で万灯大会の写真をお願いしていたkz氏も来ない。
電話をしてもなかなか通じず。
3丁目のA氏に尋ねると、朝囃子(あさっぱやし)では会ったと言うが、どうも飲みすぎですごいことになっていたようだ。
とりあえず、仕方ないのであきらめることにする。
kz氏は結局ギリギリで起きてお宮に行ってくださり、写真を撮ってくださった。
徹夜に近い状態で居たようだが、それでも起きていただいたことに感謝である。
ここで厚く御礼を述べておきたい。

子供神輿が出ると、次は太鼓の町内廻りである。
今年は太鼓の仮小屋から太鼓をだし、台車に乗せるときは一発で決まった。
何が一発かというと、台車には返しという物が付いている。
これは太鼓の面に適度な傾きを与え、叩きやすくするための物である。
いわばシーソーの軸のようになっているところに太鼓を載せるのであるが、叩いているうちにズレてしまうことを防ぐために、ヘソという出っ張りがある。
これは台車の方に出っ張りがあり、それを太鼓側の穴に勘合させる。
太鼓の方はその穴の当たりには鉄板が張ってあるが、一発で合わないこともしばしばなのでこの当たりは傷だらけである。
御本社の太鼓は、通常保管する台座から台車に太鼓を移すとき、近年宝物殿ではクレーンを使う。
しかし、祭りの時に仮小屋においてある太鼓を台車に乗せるときは台座と台車に橋を架けるようにして、太鼓を転がして載せる。
台座から台車に転がす時、上手く調整すれば一発でヘソが勘合するが、調整具合によってはなかなかはまらず苦労をし、太鼓も傷つくことにもなる。

次に、太鼓をゴロゴロと会所前まで引いてくる。
会所の前でロップをかけるが、これが今度は上手くゆかない。
「ロップがうまくかからないので、今年の町内廻りは中止になりました!」
とは、手甲脚絆に締め込みスタイルで出てきた番場の連合会長の茶々である。

ロップもかけ終わり、出発の挨拶があって、太鼓は出発する。
番場の会所から片町まで上乗りをする。この間はいくらも距離はない。
片町でいったん降り、太鼓について行く。
高安寺の西側の道を片町三丁目へ行き、このあたりで太鼓の後ろに座ってブレーキ係となる。
なにやら昨日から腰が痛いので、楽をしてしまったが、これがなかなか気持ちいい。
適度に揺れる。耳元で鳴る太鼓の音もあまり気にならない。
なにやら眠くなる。

太鼓は再び旧甲州街道に戻り、分倍河原の商店街に入る。
この駅前でUターン。今年は、ここの商店街での休憩はないそうだ。
素通りして屋敷分の南裏から浅間神社の北へ出てそこからまた旧道へゆく。
いなげや前を西へ向かって伊藤家へ。
今年はのんびりとつきあわせて貰うが、暑いせいか人がずいぶん減った。
きっとどこかで引っ掛かっているに相違ない。また戻ってくるだろう。

さて、次は屋敷分の会所へ行き、さらに北裏へと進む。
北裏の最初は美好町公園で休憩し、さらに数カ所止まりつつ、府中街道へ出る。
途中、先年なくなった方の家の前にも寄る。時間を合わせて、片町の山車もやってくる。
府中街道は球場へ行き、また戻って今度は番場三丁目の会所へ行く。ここで休憩しているときに、上に乗る。
そこから、先はいったん西に向かい、次に下河原緑道沿いに南に行くのだが、ここで1人落ちかけた。
上乗りが引っ張り、下からの支えもあって事なきを得る。

そのまま旧甲州街道を渡り、番場一丁目の南裏へと太鼓は進む。
一丁目の休憩所で一休みし、ここから府中街道へ出るとそこでいつも御霊の太鼓とかち合う。

御霊の太鼓。
「御霊宮の御先払太鼓(ごりょうぐうのおさきばらいたいこ)」とでも言うのが正式なのだろうか。
我々は「ごれいのたいこ」あるいは「ほんまちのたいこ」と呼ぶ。
本町の太鼓というのは、御霊宮(ごりょうぐう)の分担町であり、この太鼓も同じく本町のものだ。
だから通称として「本町の太鼓」となるし、「ごれい」というのは「御霊宮」というのを「ごれいのみや」と呼ぶことが多いためだ。
正式には違うのだけれども、府中の人は昔から「御霊宮(ごれいのみや)」と呼ぶ。
だから、「御霊の太鼓(ごれいのたいこ)」と呼んでしまう。
なお、「四之宮」も平塚の地名では「しのみや」だけど、府中の神輿は「よのみや」。

と、蘊蓄はおいといて、府中街道でその御霊の太鼓とかちあう。
・・・・ことになっているので、ちゃんとかちあう。
そして府中街道と旧道の交差点で両太鼓はわずかな時間だが叩き合いをする。
迷惑だろうが、車を全部止めてやるのは気分がよい。
もっとも、普段やってはいけないことをおおっぴらに出来るのがお祭りでもある。
それも、年に一度、せいぜい3分かそこらである。

御本社の太鼓はそのまま西馬場へと向かい、西馬場の会所で休み、今度は大鳥居前を神戸へ向かう。
大鳥居前に御霊の太鼓と御先払太鼓がいて、また大いに盛り上がる。
このときの様子、非常に良かったとのことで、評判はいい。
そこに居合わせた
出来ればまた来年もやりたい。
時間を上手く調整できれば問題ないだろうし。

さて、太鼓は神戸の会所へ寄り、番場へと向かう。府中街道との交差点で山車行列と行きあってしばらく停止。
次々と山車は通り過ぎてゆく。中でも面白いのは寿町の山車で、この山車は神戸からやってきた元だんじり。
なので曲引きというかなんというか。
他の山車はハナを向けて挨拶する程度だが、この山車は一旦停止し山車前方を持ち上げてウィリー状態に持ってゆく。
なかなかこれは見応えがあるが、やはり目立つらしく、その様子を撮った写真はこれまたWebでもよく見ることが出来る。

山車がすべて行った後、太鼓は番場の会所前へ戻る。
ここで、太鼓を離れて山車のパレードを撮影しに行く。
残念ながらすべての山車は写せなかったが、まぁ良しとする。

そして4日も暮れてゆく。

2005年5月5日

いよいよ本番の日だ。
今日は太鼓の送り込みについて出た。写真を写しながらのんびりと行く。
今年も送り込みではササラが付くので、神社の鳥居前で行列の並びを整えてそれから入る。
なんだか知らないが、行きがかり上、ササラを揃えるために音頭とりをはじめてしまったら、結局最後まですることになった。
「おいさーっ おいさーっ」と掛け声をかけつつ、片手を上下させて調子をとるが、これでけっこう大変だった。
前日に太鼓で「オーライオーライ」をやって潰しかけた喉を、完全に潰してしまう。
いいかげん喉が痛いが、我慢をして続け、行列は中雀門の前に到着する。

ここで太鼓から離れて、来合わせたお差し込みの行列といっしょにお白州へ入り、各宮の撮影をする。
六之宮は最後の準備ができる前だったようで、結果キチンとした姿は撮り損ねてしまう。
後で気づいたのだが、六之宮は井垣に榊をつけているのだが、その榊を取り付ける前に写した物しか、デジカメに残っていなかった。
思えば御本社の支度の途中で、六之宮の人が何かしていた記憶がある。

さて、いったん会所へ戻って、おいでを待つ。この時間はあんがいヒマがある。
小用を済ませつつ、一度自宅に戻るとそこへ電話が。
一之宮の人が来たが、誰も主だった人がいないとのこと。
すぐに父親に伝え、自分も用意して会所へ戻る。
そうこうするうちに集合時間が近くなり、少しずつ人数が集まってくる。

時間になり、行列を組んで出発。

神戸の会所で集まり、五カ町の青年会長の挨拶があるが、この際に今年は民主党の菅氏が挨拶した。
私の周囲では、この件は正直言って評判が悪い。
お祭りとは何の関係もない人が出てきて、人前に出て挨拶するのはおかしいということだ。
確かに有名な人ではあるが、府中のお祭りで話をするような立場ではない。
「場をわきまえよ」とのことであろう。出すぎると反感を買う。

そんなこともありつつ、行列は再度出発して、お宮に入る。
お宮について、中雀門のまえに担ぎ手などが大勢集まっている。
ここで、掲示板にもよく書き込みしてくださる江戸の粋氏にお会いする。
御挨拶して、あとは時刻を待つ。

今年は妙に気ぜわしい。

そして、5月5日午後6時を迎えた。あっけなく花火が鳴り響いてしまう。
中雀門の格子から一之宮の鳳凰が見えるころ、外ではホイサホイサの合唱が始まる。
一之宮がもったいつけるようにいったん輿をおろし、四天を縛りつける。
その間、表ではなんとなくジリジリとする。
ようやく神輿があがり、中雀門に近づいてくる。
門が開き、一之宮が出る。
歓声が上がり、担ぎ手がわらわらと寄ってゆく。
こうして、凝縮された時間が始まる。

担ぎ手の声、神輿の金具の鳴る音、金棒、打ち鳴らされる大太鼓、オーライの声。
そしてあっというまに最後の波が訪れ、それが引いたとき5月5日は終わった。

お祭りは楽しい。

そう、毎年、お祭りは楽しい。
毎年毎年と毎年思っているが、さて、おいでに来るようになって何年だろうか。
子供の時分、毎年「おいでに行きたい」と父親にせがんでいたが、だめだといわれていた。
当時はまだ昔のお祭りの気分が強く残っていて、おいでは危ないから子供はだめだとみんなが言っていた。
それを、町内の人間が出発してから、あとから入り込んだのが最初だった。
確か小学校3〜4年のころだったと思う。年齢にすると8〜9歳だ。
あのとき、入り込んで親父に会って「来ちゃったよ」というと、親父は諦めたのか「入れちゃうだろ」と答えたことを覚えている。
以来、大手を振ってついてゆくようになった。
かれこれ、20年は過ぎている。

考えてみれば、我がお祭り暦もそれなりに長くなったものだ。
遡ってみると、0歳当時のお祭りは、それこそ新生児といってよかったので産着にくるまっていたようだ。
しかし、1歳にはすでに爺さんが半纏を買ってくれて、それを着ていたという。
自分はお祭りが大好きだった爺さんに可愛がられた。その影響は大きいだろう。
3〜4歳くらいから友達と山車を引っ張っていた。
このころは、今と時代も違って物騒なことも少なかったのだが、すでこの時点で保護者なしで出かけていた。
5歳くらいのときに親父が爺さんのあとで自治会役員になったため、自治会の会所へ出入りしだした。
7つくらい。小学校2年生くらいになると、すでに会所に入りびたるようになる。
親父が常にいたので出来たことではあるが、9歳くらいでは会所にいるのがあたりまえのような感じになった。
とにかくお祭りの中にいたかったのだと思う。
ま、今でもそれは変わらないけれど。

思い出してみると、普段の遊びもお祭りごっこはおおかった。
お祭りごっこ用に、自分たちで板切れでお神輿を拵えてあった。
そのころの遊び友達の家で作って、そこに保管してあり、今ももしかしたら、あの物置の裏の壁に立てかけてあるかもしれない。
皆お祭りは好きだったと思う。
だから、お神輿を見に行こうといって、宝物殿へお神輿を見に行くこともけっこうあった。
他にも、よくごみ箱は太鼓に擬せられた。
箒が大警固になり、あるいは父母の結婚の祝いにいただいた、名字の入った提灯を持ち出すこともあった。
この提灯、1個はすでに破壊し尽くされて行方不明。もう1個もボロボロ。
悪いことをしたものであるがもはや遠き日のことである。

子供のころは早く大人の神輿が担ぎたくて仕方なかったし、太鼓も叩きたかった。
提灯を持って歩きたくて歩きたくて仕方がなかった。
最初についた役は、小学校の3年か4年くらいだった。
3日のお駒の行列にお蝋係としてついていった。
無愛想な親父だが、親父がそうしてくれた。

しかし、我がことながら、筋金入りだと思う。

閑話休題。

覚書。
今年は二之宮と三之宮で騒ぎがあったらしい。
御本社は、大鳥居前と最後の交差点で六と一部で揉めた。

2005年5月6日

例によって早起きして、会所へ行く。
もろもろの準備をして、時間を待つ。
待ち構えているところで花火が鳴った。
今年は御本社が出てからも少々粘り、各宮を写真に収めた。
つもりだったが御霊が抜ける。
今年は四之宮がグリに戻していたが、二之宮もお帰りはグリになっていた。

写真を撮って、頃合を見て本社を追いかける。
番場の会所にちょうどついたときで、ここで四天を組む。
ロップがけをして水で締め、準備を整えて出発する。
本年は滞りなく町内周りを終え、神社へ戻る。
途中、変わったことといえば一之宮が寄り道をしたことくらいであろう。

自分は神輿のウマの面倒を見なくてはならないので、西馬場からお宮に先行する。
先行したついでに、各宮の宮入を写真に撮る。
おかげで思ったより6日の写真が多くなる。
御本社が神幸門を入ったのを見届け、手仕舞いする。

さて、この後は膨大な写真整理が待つ。
デジカメの進化も良し悪しである。
これはこれで、考え物であるが、とりあえずまた来年。

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