一之宮神輿
![]() 製作:明治時代 昭和48年 御本社新調時に改修。 8基中もっとも古く、100年以上担がれ続けている神輿。 完成後10年間は、御本社神輿を務めた。 のち、明治35年に白木造の御本社神輿(先代の御本社神輿:府中市郷土の森に収蔵)が新調されたあと、この神輿が、一之宮神輿として使われるようになった。 この神輿も元々は白木で、大祭時に担いだら大雨にあったため、あわてて漆を塗ったと伝えられる。 昭和47年くらいまでの写真を見ると、改修前の様子が分かる。 少なくとも、渡御の際にはワラビ手に鳳凰が無く、鳥居、井垣を外している。 鳳凰も、現在の物より尾が短く、尾羽で扇状に上に向かって開いた形状の物は見あたらない。 飾り綱も現在の紫と異なって、白い綱を使用。房や鈴も外されていたようだ。 この点、旧御本社も渡御の際には同じような状態にされたようで、ワラビ手の鳳凰は外され、井垣・鳥居も外されている写真がある。 旧御本社の鳥居や井垣は現在の物より貧弱なので、破損防止のために外したのであろう。 おそらく、一之宮も改修前は同様だったと思われる。 一之宮神輿は御本社神輿と分担町が同じである。 府中四カ町のうち番場宿が受け持っており、番場町(現 宮西町3〜5丁目)を元講とする五ヶ町(番場・神戸・片町・西馬場・屋敷分)が分担している。 この中で、現在は御本社を番場・西馬場・屋敷分が担当し、一之宮を神戸と片町が分担している。 昭和47年までは御本社を一之宮を隔年で交代での奉仕していたが、経費が掛かる等の理由により、当面上記割り当てで固定ということになり、現在までその状態が続いている。 なお、西馬場は昭和32年、神戸から分派したものといい、屋敷分は昭和53年から正式に町内として認められた。 古い時代、一之宮の講中は広い地域にあり、資料によると以下の地域となる。 東村山、坂浜、車返、常久、人見、下染屋、調布、神代、烏山、千歳村、祖師ヶ谷、船橋、経堂、廻沢、八幡山、世田谷、久留米村、小山、所沢、中野、淀橋、東中野、溝ノ口、東大和。 実に広い範囲であったことがわかるが、現在は多摩の一ノ宮のみである。 祭礼時の各町の序列としては、番場、神戸、片町、西馬場、屋敷分。 これは番場宿の中心であった番場町が、その中心としての力を持って第1位に。 神戸は元々番場宿の小字であったことから、番場宿の中の第2位を占める団体となり。 同様に、小字として上がっていても元々はあまり住人の多くなかったという片町が第3の位置を占めた物だろう。 西馬場については番場宿の中ではあるが、前述の通り分派したためその下に。 屋敷分については、氏神様が大国魂神社と別にあることから判るように、府中の宿には含まれない、屋敷分村という1つの村である。 屋敷分は、一番新しく参加し始めたため一番序列が後ろに廻っている。 なお、大祭時の五ヶ町分担金率は番場35%、神戸25%、片町20%、西馬場10%、屋敷分10%。 屋敷分参加前は、番場40%、神戸30%、片町20%、西馬場10%だったという。 序列により負担金も違っている。 ちなみに番場町は、甲州街道府中宿の一つで番場宿。ここには脇本陣があった。 府中の本陣は本町にあり、番場は本町に続いてできた宿場だという。 昔は名前の通り番所が置かれ、街道の警備が行われたらしい。 古い絵図では番場宿の中の小地名として、神戸と片町があがっている。 従って古くからの宿でいけば両町は番場宿であり、番場の一部であるということになる。 |
一之宮
小野神社 東京都多摩市鎮座 (延喜式内論社・旧郷社) 祭神:天下春命 配 瀬織津比刀@伊弉冉尊 素戔嗚尊 大己貴大神 瓊瓊杵尊 彦火火出見尊 倉稻魂命 延喜式神名帳に載る古社。 主神の天下春命(あめのしたばるのみこと)は饒速日命(にぎはやひのみこと)が河内国に降臨した際供奉したという。 また、八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)の御子神といわれ、知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)の祖神にもあたる。 ※八意思兼命・知知夫彦命は共に四之宮 秩父神社の御祭神。 小野神社の創始は安寧天皇18年2月。または8世紀中頃の説もある。 記録としては、光孝天皇元慶8年(884)に正五位上に神階が進められたというものが残っており、延喜式神名帳には小社として記載がある。 武蔵国多摩郡の小野牧は陽成上皇の御料牧であったが、承平元年(931)に敕旨牧に編入された。 小野牧を経営、別当に任じられていた小野氏の氏神が小野神社である。 小野氏は時代を経て、武蔵七党の横山党になっていったとされる。 なお、大国魂神社では現在多摩市鎮座の小野神社を一之宮として認定しているが、延喜式内論社として他にもう一つ小野神社がある。 これは東京府中市に鎮座する小野神社である。 小野神社 府中市鎮座 (延喜式内論社・旧郷社) 祭神:天下春命 瀬織津比賣命 祭神は多摩市の小野神社と同じ天下春命である。 また、瀬織津比賣命(せおりつひめ)が祀られていることも同じ。 ※多摩市の小野神社では瀬織津比刀iせおりつひめ)。 小野神社は多摩川が何度もその流れる筋を変えており、洪水も頻繁に起こっていたため何度か流されたらしい。 そして、新たに祀り直されたりしているうちに、どちらが元か不明になったと言われている。 ただ、よくよく調べてゆくと、どうも小野宮の小野神社の方が、本来の小野神社ではないかという説もある。 なお、多摩川はその流れを何度も変えているようで、時代によりもっと北を流れていたこともあるようだ。 というのは、ハケ下を流れる府中用水・市川(現在は道路下に。第3小学校の前を通る遊歩道の下である)は、昔の多摩川の流水路というのがもっぱらの説である。 このあたり、ハケ下で一段低くなっており、昔多摩川が頻繁に流路を変えたことは想像に難くない。 しかしこの市川沿いは、ハケ下でも比較的土地が低くなり、浅いながらも谷を形成しているという。 このあたりを多摩川が流れていたとき、分倍河原はまさに河原だったわけである。 また、中河原は多摩川の南岸になっていたそうで多摩川の流路の変遷を伺わせる。 ちなみに中河原の地名は、浅川と多摩川に挟まれた河原だったからだということらしい。 また、小野郷の一之宮は、元は雷神を祭っていたという話がある。 宝亀3年の12月19日太政官符に出てくる話だ。 正倉が落雷によって焼けたという事件があり、これについて占いを実施したという。 占いによると、3つの神社に対する朝廷の奉幣が衰えたから、祟ったのだと。 この、祟ったとされる雷神を祭る神社のひとつに小野郷の小野神社がでており、古い時代には雷神を祭った社であった可能性がある。 六社巡り 一之宮編へ |