二之宮神輿
![]() 昭和9年製作。 現分担は八幡町。 元は六所神領として八幡宿・京所分担であったため、三之宮神輿とは兄弟の関係になる。 八幡町は元は八幡宿村と呼ばれており、京所も八幡宿村の小名のひとつだった。 現在の清水ヶ丘や緑町あたりも八幡宿村に含まれる。 八幡宿村は明治12年6月に合併願いを出し、府中駅に含まれ、さらに府中町から府中市となり、現在に至る。 八幡宿村という名前でも宿場ではなく農業を中心とした村落だったという。 当時、府中宿(本町、番場宿、新宿)は幕府領であったため、勘定奉行管轄で代官の支配だったのに対し、八幡宿村は神社の領地であるため、寺社奉行管轄であった。 これは大国魂神社の社領とされていたもので、住人は神社の領民であり、また京所のあたりは神官や神社諸役などを担う人間が多かったという。 八幡宿村は鎮守として八幡神社(国府八幡宮)を祀っており、これらの点は氏子である四ヵ町の中でも他の三町とは性格が若干異なるともいえよう。 つまり、本町、番場、新宿は大国魂神社以外に鎮守と呼べる神社を持たないため、紛れも無く大国魂神社の氏子といえるが、現在の八幡宿は八幡神社の氏子でもあり、大国魂神社の氏子でもあるという形になっている。 これは、前出のとおり、過去において八幡宿村の住人は神社の領民であり、神社が支配していた人々ということによるものである。 ちなみに、大国魂神社の社領は五百石。社領としては破格のもので、普通は十数から数十石程度が一般的であり、大宮氷川神社でも三百石であった。 例えば、小説やドラマで有名な「鬼平犯科帳」の主人公、長谷川平蔵は四百石の旗本。 それよりも、百石多いということになる。 なお、米一石は142kg。五百石とは71tの米となる。 八幡町には、武蔵国府八幡神社が鎮座しており、ここに鎮座される八幡様と、大国主命との民話が残されている。 以下に簡単に記述する。 大国主命が初めて府中にやってきたとき、宿に困った。 その時に八幡様と出会って、八幡様が宿を探してくることとなった。 しかし、八幡様は自分だけ宿を見つけて泊まり、大国主命を迎えに来なかった。 大国主命は待ちぼうけ。 そしてこう言ったという。 「まつはういものつらいもの」つまり「まつは大嫌いだ、まつのはいやだ」と。 この話に出てくる「待つ」と「松」はよみが同じであるため、一般的に松竹梅として、めでたいものとされる松は府中では使用されまない。 正月飾りも竹を使用して祝い、また、大国魂神社の境内には松の木が一本もなく、また植樹してもすぐに枯れてしまうといわれている。 これは、大国魂神社の七不思議に数えられている話でもある。 |
二之宮
二宮神社(小河神社) 東京都あきる野市二宮鎮座 (旧郷社) 祭神:国常立尊 二宮神社は明治期まで、小河大明神・二宮大明神と称しており、御祭神は国常立尊(くにとこたちのみこと)。 府中の大国魂神社(武蔵総社六所宮・大國魂神社)所祭神座の第二席に「二宮 小河大神」と記載されることから「武蔵二の宮」とされている。 創建年代不明だが、朱雀天皇の御代に、藤原秀郷が平将門討伐のために出陣した際、当地で戦勝祈願を行って、社殿を造営したとされている。 その後も、建久年間に源頼朝の寄進、天正元年に北条氏政(小田原城主:北条氏康の息子)の寄進。 このほか、北条氏照(武蔵滝山城主:氏政の弟)が当社を祈願所とし篤く崇敬した。 明治三年に社号を二宮神社と改称し、郷社に列せられている。現在の社殿は江戸期の建立。 社地のある付近は武蔵七党の1つ、西党の二宮氏の本拠地とされ、台地上に土塁・空濠の遺構がある。 また鎌倉・室町期の大石氏の居城であった二宮城は二宮神社の境内地であるとされている。(「二宮神社並びに城跡」として東京都指定旧跡) この二之宮神社の本殿修築の際に、本殿下から縄文後期の瓶から石柱がでてきたという。 筆者はこの現物は見ては居ないが、縄文期の遺跡から男性器を象った石棒が出土している例がある。 ひょっとすると類似のものではないかと思われる これが本来の御神体と考えられ、菊池山哉説によると、本来は石神を祭ったものだという。 六社巡り 二之宮編へ |