三之宮神輿
昭和9年製作。 三之宮は、大宮の名の由来となった、さいたま市の氷川神社の御神体を祀る御神輿である。 八基のうち一番重く大きい。約1300kg。 製作当時、一六菊の紋を使用するため宮内庁への許可を取り、屋根の紋には普段は覆いをかけていたという。 戦前は、天皇家の紋である一六菊の使用には非常に厳格であり、非常な苦労があったようである。 また、この三之宮は雨乞いに霊験あらたかであり、三之宮を担いで雨乞いをすると、必ずと言っていいほど雨が降ったという。 このためか、三之宮に関わる、太鼓新調や、神輿修築などがあると大祭に雨がぱらつくことが多い。。。。様な気がする。 以前のことだが、5月3日に神輿飾り付けをしていたら、急に雨が降ってきた。 そうしたら、拝殿前では三之宮が修理完成のお祓いを受けていたりしたものだ。 実に不思議なものである。 三之宮の分担は京所町。京所は今の宮町の一部であるが、古くは八幡宿村の小名であった。 この京所は神社諸役の神官等が多く住んでいた地域である。 元々、二之宮と三之宮は八幡宿の分担であったが、資料によると明治21年に京所が八幡宿から分かれて、二之宮と三之宮の分担を分けあった。 江戸期までは、町には特に宮の分担はなく、祭りは神社の関係者を中心に行われた。 諸役は神官を中心に役決めされ、町の者はあまり関わりがなかったという。 ところが明治となり、神社の経済基盤である社領が失われた。 結果、町方にその力が移り、資料によると明治9年から12年まで、すべての神輿は四ヶ町全体で修理していたという。 その後、今のように四ヶ町に対して各宮分担が行われた。 ※江戸中期頃には、すでに府中の三宿(本町、番場宿、新宿)と各宮の結びつきが出来ていたとも言われる。 このとき、四ヶ町での分担は、京所・八幡宿:二之宮・三之宮、本町、御霊宮・四之宮、番場:御本社・一之宮、新宿:五之宮・六之宮であった。 なお府中宿は3つの宿場から成り立っていたので元は三ヶ町。これに六所神領の八幡宿が加わって四ヶ町という。 言い伝えによると、古くは三之宮の神輿が、府中−人見−天沼と結ばれてゆく人見街道(大宮街道)を村送りにされてきたという。 人見には今も三之宮講中があるが、その頃人見村に武藤氏宅に仮屋をつくり、三之宮の旅所としたという話だ。 人見には4日までに神輿がやってきた。そして、府中から迎神使が迎えに行き、5日の祭礼に参加したという。 この行事は、人見青年と村送りに担いでやってきた担ぎ手とが喧嘩してしまい、なくなったという言い伝えもある。 |
三之宮
氷川神社 埼玉県さいたま市大宮区鎮座 (延喜式内社 名神大社・旧官弊大社) 祭神:須佐之男命 稻田姫命 大己貴命 配 倉稻魂命 氷川神社は、社記によると第五代孝昭天皇の3年4月未の日の創立と伝えられる。 日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のおり祈願。 成務天皇のとき、武蔵国造となった兄多毛比命が出雲族を引きつれてこの地に移住。 氷川神社を奉崇したと伝えられる。 その後、聖武天皇(724〜49年)のとき「武蔵国一の宮」。 ついで称徳天皇の天平神護二年(七六六)には、朝廷から武蔵国では当社だけに封戸(三戸)が寄進された。 さらに醍醐天皇の延長五年(927)の「延喜式神明帳」には、名神大社として破格の月次新嘗の社格が与えられている。 治承4年(1180)に源頼朝によって社殿の再建と社領三千貫が寄進され、土御門天皇の時に正一位に進階した。 武門の信仰も篤く執権北条氏、足利氏、小田原北条氏なども深く崇敬し、江戸時代の慶長九年(1604)には、徳川氏より社領三百石が寄進。 また、文禄五年(1596)と寛文七年(1667)には社頭の整備と社殿の造営が行われている。 明治元年(1868年)東京遷都に際し、当社を武蔵国の総鎮守「勅祭の社」と定められ、明治天皇自らが親拝なされている。 明治4年官幣大社に列され同十五年に本殿・拝殿などを改造し、さらに昭和15年に本殿・拝殿・回廊などを造り変え、現在の景観となっている。 例大祭は8月1日。そのほか神事の中で特に有名なのが12月10日の大湯祭である。 氷川神社は現在、 須佐之男命(スサノオノミコト 素戔嗚尊とも書く) 稻田姫命(クシナダヒメ:スサノオの奥さん 奇稲田姫命とも書く) 大己貴命(オオナムチノミコト:大国主命の別名 スサノオの子)を祀っている。 しかし、明治以前は、氷川大社とその近くにある氷川女体神社。 それと、その中間に位置する中山神社の3社を合わせて、武蔵国一の宮の神々として祀っていたという話だ。 まず氷川女体神社だが、これは女体という文字が入っていることから女性の神様を祀る。その祭神が稻田姫命。 今の氷川大社が男神を祀る神社で須佐之男命。 中間に位置する中山神社は、大己貴命。 夫婦とその子供の神様をそのような形で祀っていたという。 また、この大宮のあたりには見沼という沼があり、ここでは氷川の神様をまつる重要な神事が行われていたという話だ。 さらに、氷川神社については、この大宮の氷川神社を本社とし、中氷川神社(埼玉県所沢市)を中社に。 そして、奥氷川神社(東京都西多摩郡奥多摩町)を奥社とする説がある。 これは奥氷川神社が最初に出来た氷川神社であり、その氷川神社を司祭する集団が勢力を広げてゆく段階で、中氷川から大宮の氷川へと移っていったとする説である。 氷川神社を奉じる集団というのは出雲族とされており、出雲族は出雲から諏訪を経て武蔵に来たという。 まず、出雲から諏訪に来たというのは、古事記にある、大国主命の国譲りの中に出てくる話だ。 長野県の諏訪に鎮座する諏訪大社の祭神は、 建御名方神(タケミナカタノカミ) 大国主命の第2子。 神八坂刀売神(ヤサカトメノカミ) 建御名方神の妃神。 八重事代主神(ヤエコトシロヌシノカミ) 建御名方神の兄。大国主命の第1子。 天津神の建御雷命(タケミカヅチノミコト)が、天照大神(アマテラスオオミカミ)の命を受けて、大国主命の領地「豊葦原の中つ国」(出雲地方であろう)を献上するように求めらた。 大国主命と八重事代主神はそれに応じたが、建御名方神は反対した。 そこで、建御雷命と力比べで決することになった。 ところが、稲佐の浜で行われた力比べでは建御名方神の負けて逃れ、科野(信濃)の州羽(諏訪)の地まできた。 そして、「この地を除いては他所に行かない」と言って住みついたという。 これは国譲りという話の真実は、天津系の出雲系に対する攻撃で、それに対して出雲系は反撃を試みたが敗戦。 出雲系の民族は、諏訪まで逃げていったというように考えるべきであろう。 とすると、諏訪に達した出雲系の人々は、さらに移動する過程で今の山梨を抜けて、奥多摩あたりに最初にたどり着いた可能性は十分あるだろう。 そこに、最初に自分たちの祖神であるスサノオとその妃神。 そしてその息子である大国主=大己貴命を祀ったということは、十分考えられる。 六社巡り 三之宮編へ |