四之宮神輿
昭和9年製作 四之宮の神輿は現在は鳳凰がついているが、以前は東照宮の神輿を手本にしたといわれ、擬宝珠がついていた。 (注記 平成17年の例大祭には擬宝珠の姿を復活。今後は4年に一度擬宝珠で渡御をするという(05.09.18)) この神輿を最初に作るときは、喧嘩したときのために飾りを最小限にしたものともいう。 大国魂の神輿の多くは、最初に綺麗にされた一之宮(新造時は御本社)を手本にしているといわれる。 しかし、それぞれについて特徴があるのも事実である。 一番重く大きい三之宮。兄弟といわれた五六之宮。白木造りの御本社。 その中で、一之宮の系統と異なった、特徴ある姿をしていた昔の四之宮の姿を懐かしむ人も多い。 分担は本町下組。分梅、本宿、小野宮、南町等が講中として加わる。 なお、昔から四之宮は喧嘩神輿といわれている。 と、言うのは府中は大国魂神社を挟んで東西が伝統的に仲が悪い。 最近はそれも薄れてはいるが、府中囃子もお宮を挟んで西側が目黒流、東側が船橋流である。 四ヶ町のうち、西は本町・番場であり、東に京所・新宿であった。 この四之宮は、前が二之宮・三之宮(八幡宿と京所)後ろは五之宮・六之宮(いずれも新宿)と、前も後ろも東の町内に挟まれている。 このため必然的に喧嘩が多くなり、このように言われるようになった。 過去には、五之宮と喧嘩となり、四之宮の者が牛刀やマサカリで、五之宮を破壊したことがあった等という話も聞く。 荒々しい、往事の暗闇祭りを偲ぶことが出来る話である。 |
四之宮
秩父神社 埼玉県秩父市鎮座 (延喜式内社・旧国弊小社) 祭神:八意思兼命 知知夫彦命 配 天御中主神 秩父神社は、崇神天皇の御代、秩父国造の始祖知知夫彦命が祖神八意思兼命を奉斎したことにはじまる。 その後、平安中期以降神仏習合の妙見信仰が加わり、天御中主神(あめのみなかぬし)を併せ祀ったという。 現在の社殿は、戦国末期に兵火で炎上したあとで、天正19年に徳川家康が社領五十七石を寄進。 代官の成瀬吉左衛門に、天正20年に建造させたもの。 社殿は昭和41年の台風で損傷のため解体復元。45年秋竣成、彫刻類も極彩色で復元された。 社殿には多くの彫刻があり左甚五郎作といわれる「つなぎの龍」や「子育ての虎」「北辰の梟」が有名。 また、当時の棟札が保存されており、これが社宝となっている。 棟札は延慶年間、丹党中村氏管掌のもとに造立された社殿が、信玄焼きといわれる甲斐武田氏の侵入により元亀元年に焼失。 家康が関東入封し、天正二十年に再建されるに至った経緯を知る、重要な資料である。 現在、社殿は埼玉県の文化財に指定されている。 昭和3年。昭和天皇の御即位に際し、国弊小社とされた。 秩父神社の例大祭として、毎年12月2日と3日に秩父夜祭がある。 京都祇園祭と飛騨高山祭と並んで日本三大曳山祭のひとつとされる。 平安中期以降、秩父神社と妙見信仰が結びつき、秩父妙見社と称しており、この妙見信仰を元に行われていた祭りだそうだ。 当時、秩父を支配した平姓秩父氏が妙見大菩薩を祭神として祀ったのだという。 妙見信仰とは北辰妙見信仰といい、妙見様は天之御中主命と同一視される。 北辰という位なので北斗七星に絡んだ信仰であり、妙見様とは北極星を神格化したもの。 元は中国より伝わった道教の影響を受けた信仰である。 秩父夜祭りは、男神の武甲山様と女神の秩父神社の妙見様が、年に一度お会いになるとの伝承がある。 六社巡り 四之宮編へ |