大国魂神社-くらやみ祭り- 祭り好きの隠れ家 用語辞典 は行


 
ここでは主に府中でのみ通用(筆者の周りだけ?)する用語用法と、多摩の方言について解説してあります。また、地名等に関してはその地域の歴史等についても解説をしています。
 
あ行 か行 さ行 た行 な行
は行 ま行 や行 ら行 わ行

ばか・ばかやろう (?)
言わずと知れた「馬鹿」の意、、、ではあるが、なぜか祭りの場では接続語や呼びかけとして使われる。

用例:「なぁんだ?ばかやろう!おめぇ!がたがた言ってねぇで、とっとと仕事しろってんだ!この!ばかやろう!日が暮れちまうぞ!ばかやろう!早く しろよぉ!ばか!」(どうしたんだい?君?そんなこと言ってないで、早く仕事をしなさい。日が暮れてしまいますよ?早くしてください)といった言葉を滑ら かにしゃべるようになれば、あなたも一人前である。ちょっと聞くと喧嘩のようだが決してそうではなく、祭り人の和やかなコミュニケーションなのだ。また、 前述のように言われたら「うっせぇ!ばかやろう!てめぇこそしっかり動けよ!このばか!腰がふらついてるじゃねえか!ばかやろう!!」(なんですか?あな たも、しっかり働きましょうよ?フラフラとしてますが大丈夫ですか?)と、いった感じで、丁寧に答えましょう。

白丁(はくちょう)・白丁着(はくちょうぎ) 
白布の狩衣(かりぎぬ)で、現在は神輿を担ぐ際に着用する。神輿を担ぐものの正装。あるいはその白丁着を来た人。

白丁着には個人持ちの品と、神社から借りるものがあり、後者を役白丁(やくはくちょう)と呼ぶ。正規の神輿の担ぎ手として、五月五日の中雀門内から担げるのは役白丁を着た者だけである。

なお、丁(てい)という言葉の意味には「官が徴発して使役する役夫。」という意味があり、労役を課せられた人のことである。
白丁という着物は、昔は官人の奴僕などが着たものでもあり、諸官司や神社などの雑役や、貴人の従者として傘持ちや沓(くつ)持ち、馬丁等の役割を持つ者もこれを着ていた。
たとえば、雛人形等で段飾りになったものには、下段の方に使役される者の人形がある(三人組で、泣き顔、笑い顔、怒り顔になっているものもある)が彼らが着ているものも同様と思われる。
すでにこのような価値観は薄れて、神輿愛好会などが作られ、神輿を担ぐことを楽しむようにはなったが、輿を担ぐことは、いわば奴僕の仕事であった。時代の変化というのは面白いものである。
鉢洗い(はちあらい) 
他の土地では直会(なおらい)などと呼ぶ。お祭り後のご苦労さん会でもあり、決算発表などもやる。
と、いうより、本来は決算の場で、その後でちょっと飲むだけだったのかも知れない。
一説によると、鉢洗いの時には文字通り鉢がおいてあり、旦那衆が集まってきてその鉢にお金を入れてゆく。最後にザラザラとその鉢をあけて、そのお金で支払いをしたものだという。
ここで言う旦那衆とは古くは名主等を中心とした、いわば町の顔役=お金持ちである。大店を表に構え、使用人をおいて商売をしていた。
八幡宿(はちまんしゅく)・八幡町(はちまんちょう) 
東京都府中市八幡町。元は八幡宿村といい大国魂神社の社領だった。一国一宮の八幡宮がある。宿といっても宿場ではなく、農業主体の村落で、府中宿には含まれない。
一説によると、現在大国魂神社の神官をしている猿渡家が、領地としていた佐 江戸の知行が上知となり、替え地として渡されたのが八幡宿で、猿渡家の屋敷もここにあったという話がある。なお、猿渡家は後北条氏の家臣であったといい、 後北条家の命により六所に神官として入ったらしい。だとすると、八幡宿や京所等の六所神領はいわば後北条時代から猿渡家の領地であり、家康から与えられた 神領五百石も、元から猿渡家の領地であったものを安堵されたものとも言えるのかもしれない。
バッチ(ばっち)・バチ(ばち) 、名称
太鼓を叩く棒。いわゆる「太鼓ばち」なぜか「バッチ」とよぶ場合がある。大太鼓のばちはヒノキ製。バットを短くしたような形をしており、これを振り上げるだけでもなかなか大変。
昔は太鼓講中などは各々手作りにしてきたという。
より大きな音を出すために、より太いものにしたり、灰を混ぜた水につけて重くしたものなどを使ったという。
これも、時代とともに喧嘩の道具にされたため太さなどの制限が加えられ、使用できる数も各太鼓につき現在は撥2膳と決められており、神社に印をつけてもらったものだけを用いることになっている。
花(はな) 
お祭りの際に、町内会等に持ってゆく、お祝い金のこと。この奉納金は誰がいくら納めたかと言うことを、お礼という意味で紙に書いて張り出される。
半紙に”のし”がつけられ、「一金○萬円也 ××様」等と張り出される恐るべきシステムである。
ちなみにお祝い金を持ってゆくことを、花を掛けるという。
馬場大門欅並木(ばばだいもんけやきなみき) 
大国魂神社の参道。古来より馬場として整備され、朝廷へ献上の馬はここでのテストを行ってから献上されたという。また、徳川時代には馬市がたったことから、馬場大門と呼ばれる。
府中でもっとも美しい景色は、この欅並木の京王線府中駅あたりから、5月例大祭のときに、太鼓の上から大国魂神社方向への眺めであると、筆者は断言する。欅の若葉が頭上すれすれに輝き、緑のトンネルが続く。
囃子(はやし) 
府中では、伝統芸能「府中囃子」のこと。祭りではもちろん、祝い事などでも演奏される。これを聞いて落ち着かなくなるようであれば、もう完全に染まっています。
ちなみに、筆者は工事の音などでドンドンという音が聞こえると、どこかの太鼓かと思って反応します。たとえ府中を遠く離れた場所でも。
腹掛け(はらがけ) 
祭りの際に着る。元は職人着。ポケットがたくさんついた前掛けの様なもの。
半纏・半天(はんてん) 
お祭りの時に着る衣服。祭半纏(まつりばんてん)のこと。襟に町名や所属する会の名前などが入る。法被(はっぴ)とも言うが、そう呼ぶと素人と思われるので注意
半纏は自身の所属を明確にする働きもあり、喧嘩の時はとっても大事で、敵味方の識別標識に使用される。
半纏の材質は綿が一般的で、綿紬や綿絽などが使われる。ものによっては絹やレーヨンなどで作られたもの、火消し等が使う刺し子、あるいは鹿革などの革製のものもある。
火消しの使う半纏は綿のものでも丈が七分と長い。これが火消しの粋をあらわすものだという。
通常半纏は一反で二着できる(だから半纏)のだが、火消しの半纏は一反で作ると半端が出てしまう。この半端は惜しみなく捨ててしまう所が粋なのだという。
背に背負う大紋や襟に入れる名前などに関しては、明確なルールは無い。しかし、すでに使用されているようなものは避けるのが常識となっており、場合によっては紛争の種ともなる。
番場(ばんば)・番場町(ばんばちょう) 
府中四ヶ町のひとつ。古くは府中三町のうち、番場宿の中心地にあたり、脇本陣(後年は本陣も務めた)もここにあった。宿場の中心として商店も多く、いわゆる「旦那衆」が多く住んでいた。現在の宮西町三丁目から五丁目にかけての一帯であり、御本社・一之宮の元講。
番場宿にはこの中心地以外に神戸・片町の小名が上がっており、神戸は古くから一集落としての独立性があったようだ。野村瓜州の四人部屋などは神戸にあり、商店も集まっていた。
明治の中頃までは片町は番場に付随する形で、祭礼の経費なども初期は番場と神戸が折半し、片町分は番場の分に含まれる形となっていた。片町の場合は宿地としては外れの方に位置し、中心地である番場町に住む人の耕地などが多かったためであろう
分担金に関して言えば、現在の西馬場などは名前は出てこないものの、おそらく神戸分に含まれていたのだろう。逆に言えば人口も少なく、西馬場分と 呼ぶほどの、まとまったものはなかったのではないかと思われる。片町については、外れに寄っているとはいえ甲州街道沿いであり、西馬場よりは人口があった と思われる。しかし、この頃は実質的に番場の経済基盤に依存する部分も大きかったため、番場分の一部という形を取ったのだと考えられる。
なお、片町は明治時代の後期となると独立性を持ち始め、昭和32年に西馬場が独立して分担するに至るまで、番場、神戸、片町の三ヶ町による御本社・一之宮神輿の分担が行われていた。
番場屋(ばんばや) 種別:おみせ
番場にあるお店。忘年会・新年会・クラス会等々宴会のご用命はこちらへ。ここの2階に「ラ・バンバ」というパブもあり。名前がじつによい。
東馬場(ひがしばば) 
欅並木の東側。伊勢丹を抱える商業地域となっている。新宿の一部。
氷川神社・氷川大社(ひかわじんじゃ・ひかわたいしゃ) 
さいたま市の大宮に鎮座する、旧官弊大社。武藏国の一之宮とされるが、六所宮の序列では三之宮。
詳細はこちら
六所巡り 一之宮から三之宮編
よく、小野神社と氷川神社でどちらが本来の一之宮かという議論がなされるが、六所の一之宮は小野神社で間違いない。しかし、六所の一之宮と違い、各国の一之宮の定義はあいまいであり、その国の一之宮と称する宮は時代によって変化・あるいは互いに自称して、並立するような場合もある。
これは、なにをもって一之宮とするかという定義があいまいで、かつ公的なシステムではないがためであると推察する。
では、どのようにして一之宮と呼ばれるようになったか。これはそのときその地域で大きな神社、あるいは力のある神社を、民衆による番付のように一之宮と呼ぶようになり、それが広まって、各地の一之宮が認められていったのだろう。
実際に、氷川神社が武蔵国の一之宮として何か特別な待遇を受けたのは、明治以降といわれ、明治天皇が参拝されて後であるという。
筆者(ひっしゃ) 
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人見・人見村(ひとみ・ひとみむら) 
三之宮講中。浅間山近辺の古くからの部落。昔、三之宮神輿は大宮から人見にきて、ここで府中からの迎えを受けたという。
鎮守に稲荷神社(人見稲荷)を祀り、また浅間山頂上には浅間神社があり、こちらも同時にお祀りしている。
笛(ふえ) 
管楽器の一種。いわゆるホイッスル等の合図に使うようなものもあるが、お祭りの時に指すのは、囃子に使う「篠笛」のことが一般的だと考えていい。
府中でこれを吹くと、コブラは踊らないが獅子は踊る。
人見村(ひとみむら) 
府中の北東。人見街道が通る。古戦場。「人見の合戦花絵巻」と、郷土カルタに出ている。人見稲荷を氏神としている。三之宮講中。
被布 (被風)(ひふ)・被布(被風)半纏(ひふばんてん) 
半纏の上に重ねて着る防寒具。半纏コート。
平バチ(ひらばち) 
大太鼓を叩くときの方法。ばち全体を皮面に平行に当てる。従って、叩き手の手も皮に当たるため、皮が擦り剥けて血が出ることが多い。このため、皮の手袋を着用することもある。
また、平バチは近くで聞くと大きな音に聞こえるが、音が濁る(=ノイズ成分が多い)ため遠くまでは音が届かない。初心者向き。
府中(ふちゅう) 
東京都府中市のこと。
ただし、単に「府中」という場合は、市域全域ではなく四カ町の区域と考えるほうがしっくりと来る。府中市内といっても古くからの部落が多く、各地域に地域性が強いためであろう。
・略史
645年 大化改新。武蔵国の国府が置かれる。
1602年 甲州道中(甲州街道)整備に伴い、府中宿が置かれる。
1868年 韮山県設置、市域の南西部が県域になる。残りは武蔵知県事所管となる。
1869年 品川県設置、市域の南西部を除き、県域となる。
1871年 廃藩置県。順次神奈川県に編入。
1878年 多摩郡分割。市域は北多摩郡域となり、北多摩郡役所が府中に置かれる。
1880年 市域中心部の3町2村(本町、番場宿、新宿、八幡宿村、屋敷分村)が合併して府中駅となる。
1889年 市域東部8か村が合併。多磨村になる。西部3か村が合併。西府村になる。府中駅は名称を変えずに町制施行。
1893年 三多摩(北多摩、南多摩、西多摩)郡が東京府に編入。府中駅は府中町に改称。
1910年 東京砂利鉄道(後の国鉄下河原線)開通。
1913年 電話開通。
1916年 京王電気軌道(現京王線の一部)開通。
1922年 多摩鉄道(現西武多摩川線)開通。
1925年 玉南電気鉄道(現京王線の一部)開通。
1929年 南武鉄道(現JR南武線)開通。
1943年 東京府が東京都と改称。
1954年4月1日 府中町、多磨村、西府村が合併。市制施行。府中市となる。
1956年 新甲州街道東府中 - 本宿間開通。
1961年 新甲州街道東府中 - 調布間開通。
1973年 国鉄(当時)武蔵野線開通。下河原線を廃線。
府中宿(ふちゅうじゅく) 
東京都府中市の中心部で、本町、番場宿、新宿の府中三宿から成り立つ甲州街道の宿場。
府中三宿(ふちゅうさんしゅく)・府中三町(ふちゅうさんちょう) 、名称
本町、番場宿、新宿の府中宿を構成する3つの宿場のこと。
府中囃子(ふちゅうばやし) 
大国魂神社を挟んで西が目黒流、東側が船橋流と、異なった2つの流派が継がれている。2つの流派は使用する楽器等は同じ。「大太鼓」「締 太鼓(高音)」「締太鼓(低音)」「笛」「拍子木」「すりがね」で構成され、「獅子」や「天狐」「ひょっとこ」「おかめ」等が、曲に合わせて舞う。
船橋(ふなばし)・船橋流(ふなばしりゅう)
府中囃子船橋流のこと。千歳船橋を起源としているが、さらにいえばこれも目黒囃子を源流とする。
分梅(ぶばい)・分倍(ぶばい)・分梅河原(ぶばいがわら)・分倍河原(ぶばいがわら) 
府中市分梅町。古くは鎌倉の北条方と朝廷方の新田勢との戦い、分倍河原合戦の舞台ともなった。本町の小名に挙がる部落で、部落鎮守として八雲神社をまつる。
部落(ぶらく) 
関西で部落というと、=被差別部落や被差別民を指すなど誤解を受ける。府中のあたりでは部落=集落である。新編武蔵風土紀などに挙げられる、村や宿の小名として挙がっているものが、だいたい部落とよばれるものに相当すると考えて良いだろう。
人により誤解を受ける、あるいは世間にはこういうことでどうしても「誤解したがる人」がいるので念のため説明しておく。
ふんだくる 
「奪い取る」「分捕る」の意。
べ・べぇ・べよ・べな 
語尾にこれらの言葉をつける。無線会話の「どうぞ」等と同じく、相手に話す権利を譲る。「べよ」も「だべ」等と同じで様々なバリエーションがあるが、語尾が上がるのは多摩風の会話の鉄則。

用例「腹減ったなぁ、メシでも行くべ?」(お腹が空きましたね、食事に行きませんか?)

ヘルメット(へるめっと) 
頭部を防護するためにかぶる、鉄や強化プラスチック等でできた防護用の帽子。鉄製のものなどは鉄兜などとも呼ばれる。
なぜこの用語集に出ているか不審に思う向きもあるであろうが、くらやみ祭でも昭和30年代から40年代ころと思われる写真にはヘルメットをかぶって参加している様子が多く残っている。
多分。「実戦向け」の用途であったろうことは想像に難くない。
ホイサ(ほいさ) 
神輿を担ぐときの掛け声。「ホイサ・ホイサ・ホイサ」。神輿以外でも、府中の男子が力を出すときの掛け声として使われることが多い。一般的(?)な掛け声の「よいしょ」等と同じような使い方をする。

古くは府中では「わっしょい」が掛け声として使用されており、ホイサは東京区部から入ってきたものであるようだ。
さらに古い時代の神輿渡御について言えば、江戸期にはおいでの時間は行列の人たちの足音や、神輿の金具の触れあう音などしか聞こえなかったとい う。あるいは先触れの太鼓などの音だけで、無言で行われたようだ。それが、おかえりの時になると、皆が一斉に鬨の声をあげ、提灯の明かりに照らされて担が れたものという記録がある。
明治に入って町方にその力が移り、年々荒々しくなる課程で、おいでの時にも「わっしょい」の掛け声がとりいれられていったものと考えられる。結局はそれがさらに外部からの影響で、ホイサホイサに転じていったのであろう。
なお、昔の人の話では、昔の神輿の担ぎ手は、今のように行儀よく皆が前を向いたりせず、前やら後ろやらてんでの方向を向いて担いでいたという。 この場合、推定ではあるが、物理的に考えて力のベクトル方向が一定でなくなると想像される。このため、神輿の進行も今よりももっと大きくうねっていたであろうと考えられる。
さらに掛け声について「ホイサホイサ」の小刻みなリズムに対して、「わっしょいわっしょい」であれば、そのリズムの違いからも大きくのたるように揉まれていったであろう。 いわゆる江戸の神輿に対して、田舎神輿だと言われたとも聞くのは、こういった点が理由だと思われる。

用例:「おらぁっ!!上げんぞっ!!それっ!ホイサ!ホイサ!ホイサ!」(みなさん、御神輿を上げましょう。良いですか?上げてください。よいしょ、よいしょ、よいしょ)

類義語:オイサ、オリャ、ソリャ

ぼっこす・ぼっこれる 
「ぶっ壊す」「ぶっ壊れる」「壊す」「壊れる」の意。

用例:「おめぇが、ぼっこしちまったんだろう?」(お前がぶっ壊したのだろう?)「そんなにしてると、ぼっこれちまうぞ?」(そんな風にしていると、壊れちゃうよ?)

類義語:たたっこす

ぽっぽ 
「ふところ」の意。懐というとピンとこないが、昔は着物のたもとに小銭を入れたりしていた。その様子を想像すればなんとなく語源が判る。
念のためだが、鳩ポッポとは関係ない。
堀端鈴木(ほりばたすずき)・堀端鈴木新田(ほりばたすずきしんでん) 
現在の小平市辺りにあった村落名。鈴木新田に含まれ、御本社太鼓講中がある。
鈴木新田は、武州多摩郡貫井村(現小金井市)の名主、鈴木利左衛門により開発された新田。
範囲は上鈴木(上水本町)、下鈴木(鈴木町1、2、花南11〜3)、野中新田善左衛門組(花小金井1〜6)堀端鈴木(御幸町)からなる。
本バチ(ほんばち) 
大太皷を叩くとき、自分の手を皮面に当てずに叩く方法。平バチよりも難しい。バチの先だけで叩くため、叩きようによっては皮を破る可能性が高くなる。またインパクトのあとの跳ね返りが、平バチより制御しづらい。さらに、手を当てずバチの先を三分の一ほど並行に当てるような形をとるため、この加減が難しく、本当に先端だけで当てれば音が出ず、かといってバチと皮の接触をなるべく多くとろうとすると、手もあたって平バチになってしまう。
音に関しては近くで聞いた場合は、音が平バチにくらべて小さく聞こえるが、音が濁らず、平バチよりも遠くまで音が通るという。このことから「本バチは遠音」(ほんばちはとおね)という。昔は騒音が少なかったせいか、5月の例大祭の太鼓の音は、新宿や世田谷あたりまで聞こえたというが、現在はビルなども多く、音が遠くまで伝わることはない。このせいか、現在は派手に音が出る平バチが主流である。
しかし、この本バチで上手に叩く人というのは、判る人からは一目置かれる存在である。
本宿(ほんしゅく) 
府中の西、元は本宿村と呼ばれ、現在は府中市本宿町となっている。部落の鎮守は熊野神社。大国魂神社の例大祭では四之宮に参加。
元々は本宿村の中心はハケ下に広がり、小野宮こと小野神社を鎮守としており、その中心は甲州古街道(江戸時代以前の甲州街道)沿いにあったという。おそらくはこの時代は宿地としての機能を持っていたのではないだろうか。
本町(ほんまち) 
府中宿でもっとも古い宿場。現在の町名の本町とは、いささか範囲が異なる。府中街道に面した町で、上組、中組、下組といった具合に別れている。
本町上組は御霊宮太鼓、中組は御霊宮、下組は四之宮を分担している。
本町の小名に矢崎・分梅・芝間等があり、こちらは近郊農村部で、それぞれ部落の鎮守を別に祀っている。矢崎には矢崎熊野神社、分梅には八雲神社、芝間には芝間稲荷があり、府中宿本町に含まれてはいても、独立性を持つ地域であった。

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