大国魂神社-くらやみ祭り- 祭り好きの隠れ家 用語辞典 か行


 
ここでは主に府中でのみ通用(筆者の周りだけ?)する用語用法と、多摩の方言について解説してあります。また、地名等に関してはその地域の歴史等についても解説をしています。
 
あ行 か行 さ行 た行 な行
は行 ま行 や行 ら行 わ行

買い物帳(かいものちょう) 
お祭りの時、ツケで買い物をする習慣がある。その際に用いるツケ帳。
府中ではかなりの神通力があり、通常はこれで問題なく買い物ができる。しかし近年その神通力にも陰りが見え、特に、イトー○ーカドー等では通用しないというのが定説。一部コンビニでは使用実績ありだが、危険な行為であることに間違いはない。
バイトの女の子が混乱する可能性は大いにあるので、止めておくが吉。
鏡(かがみ) 
神前に置く鏡をはじめ、古来より鏡は権力の象徴であった。神輿の胴にも鏡は吊るされ、大国魂神社にも多くの銅鏡が残されている。
このほか、太鼓の叩き面を「カガミ」と称することもあり、これはその丸い形から連想し、このように称するようになったと推察される。
飾り一之宮(かざりいちのみや) 
過去、大国魂神社例大祭に、多摩市一ノ宮にある小野神社からやってきた神輿。
おいででは使用しない、文字通りの飾りの一之宮神輿だった。
しかし、一之宮の神輿が来ないとお祭りが始まらないとされた、大切な行事だった
江戸時代の文化文政期に小野神社から、新しく神輿が出来たので六所宮祭礼に参加したいとの申し込みがあったという。
このとき、祭礼に使用する一之宮神輿は、六所宮にすでにあった。しかし、武蔵国内の六所の神社から神輿が来て、例大祭を行っていたという故事に基づいて、神事への参加はできないが来ることは構わないという旨の回答をしたのだといわれる。
多摩市一ノ宮の小野神社を出た神輿は、そのまま多摩川の河原に出て、水が少なければ担いだままジャブジャブと河に入り、対岸へ渡したという。
一説には、対岸では府中の人々(おそらくは府中側の岸の村の者が中心であろう)が待っており、そこから担ぎ手は交代することになっていたらしい。
多摩川を渡ると担ぎ手は交代しなくてはならぬため、川に入った神輿はなかなか上がってこようとしなかったともいう。
岸の近くに寄ってはまた中程まで戻り、これを何度も繰り返してようやく上がってきたという。
水が多少多くても、一ノ宮の渡しには板橋があり、そこを通ったらしい。
あまりに増水が酷いときは、弓矢で御神体を飛ばしたこともあったそうだが、その後は関戸橋が開通してこちらを通るようになった。
多摩川を渡ると神輿は北上し、小野宮にある小野神社へと参拝し、分梅を経て市川に沿って府中へ来たそうで、市川沿いを渡御中に川に神輿を落としたことがあるという話しも残っている。
最終的には本町に立ちよって番場までやってきていた。
一ノ宮の神輿道中においては、本町までは一ノ宮が責任を持って神輿を渡御し、本町で神事を行い御霊を抜く。本町到着は15時頃が常で、小野神社の神官は動座祭に参加した。
その後、番場の仮屋へ渡御をする際には小野神社の氏子は後ろへ回り、番場をはじめとした府中の衆に前を譲って渡御したのだという。
この番場への渡御は華やかなもので、荒々しいおいでを前にした一つの見せ場だったという。
結局、昭和35年に、交通事情その他諸事情の変化によって中止となった。
理由は、多摩動物公園の開園に伴う渋滞があり、開園直後の渡御では車を蹴るなどしてトラブルになったという話がある。
その後、何年かはトラックで運んだりもしたものの、暗闇祭りそのものが昼間のお祭りへと変化したためこの行事が絶えたという。
なお、文化文政期に作られた神輿は、現在国分寺市の本多八幡神社にあり、現在も使用されている。写真によると屋根紋は巴紋、府中市郷土の森にある旧三之宮や宝物殿の旧四之宮などに似た形態である。
現在の多摩市一之宮の神輿は昭和になって作られたもので、先代に引き続きくらや祭りへの道中を行っていたが、先述の理由により中止。この神輿も以前は三つ巴の屋根紋であったものを昭和50年代に改修し、十六菊に変えている。
片町(かたまち) 
元は、番場宿の小名として古地図に載っている。旧甲州街道沿いの、番場の西側。南側に高安寺の敷地が大きく広がっており、町屋は街道の北側にしかなかったため、片町の名が付いた。
片町は番場宿の小名として挙がってはいたものの、祭礼時分担金の割り当てなどを見ると、明治の半ば頃まで番場宿番場に付随していた形になっており、集落として独立性が乏しかった。その後、人口が増加すると共に独立性を持ち始めたものと考えられる。
金棒(かなぼう) 
鉄で出来た棒で、頭部に鉄の輪をつけた鉄製の杖。行列では、警固の次に位置し、左右交互に地面を突く。シャンコンシャンコンいう音がする。
もしマイ金棒が欲しい奇特な人がいるなら、浅草の宮本卯之助商店あたりへ連絡するべし。
金鑽神社・金佐奈神社(かなさなじんじゃ) 
武蔵総社五之宮。武藏国二之宮とされる古社。埼玉県児玉郡神川町鎮座。
社格は官幣中社。本殿を持たず、山そのものを御神体とする。
古くここに別当寺があり、修験で栄えたという。近くの山に鏡石という大石があり、それにまつわる伝説もいろいろある。
詳細はこちら
六所巡り 四之宮・五之宮編
上石原(かみいしわら) 
調布市上石原。布田五宿(国領、下布田、上布田、下石原、上石原)の1つ。近藤勇の実家がある。鎮守に若宮八幡を祭る。
なお、下石原もそうだが、「いしはら」ではなく「いしわら」が正解とのこと。
上鈴木(かみすずき) 
東京都小平市。古くは下鈴木、堀端鈴木などと共に鈴木新田に含まれる。鎮守として稲荷神社を祭っており、これは、貫井村に鎮座していた稲荷神社を勧請した。御本社太鼓講中がある。
鈴木新田は、武州多摩郡貫井村(現小金井市)の名主、鈴木利左衛門により開発された新田。
範囲は上鈴木(上水本町)、下鈴木(鈴木町1、2、花南11〜3)、野中新田善左衛門組(花小金井1〜6)堀端鈴木(御幸町)からなる。
上染屋(かみそめや) 
東京都府中市。染屋村が別れ、上染屋村と下染屋村となった。鎮守として八幡神社をまつる。
革半纏(かわばんてん) 
鹿革等で作られた半纏。元は火消し等が使っていたもの。
関東(かんとう) 
通常は地域としての関東をさすが、五・六之宮の講中が古くから使っている半纏の代紋に「関東」を使用している。
京所(きょうず)・京所町(きょうずちょう) 
三之宮を分担。六所神領の部落で、神人などが住んだ。
明治21年に八幡宿から分派したという。
脚半(きゃはん) 
脚半とは古くは脛巾(はばき)といい、朝服の一部であったもの。後に脛を守る保護具として旅人の装束となった。
くじ之宮(くじのみや) 
番場町の11軒の家が講に属している神社。(現在は9軒になっている)
漢字としてはもともと公事之宮とかいていたようだが、現在は別の字を当てている。この講は無尽講であったとも言われるが、由緒は不明。現在は宮西町の花蔵院境内にある。
昔、徴兵制であった頃は、徴兵から逃れられるたい旨を書いた絵馬等が奉納されていたという。これは公事の宮、つまり公のことの宮という名から、そのご利益を期待したのではなかろうか。
今期待するならば、くじの宮だけに、宝くじ当選祈願であろうか。年末ジャンボ購入の前後に参拝すると1等が当たるかもしれない。
例祭は2月8日。世話人が順繰りに宿を勤め、一昔前には太鼓を引き出して宿の前に置いていた。子供などがこれを叩いていると蜜柑をくれるなどした。現在は2月8日ではなく、その近辺の日曜などに振り返られることが多い。
研究者によると昔の行事は「ようかぞ」の要素も加わっていたらしいとのこと。
熊野神社(くまのじんじゃ) 
1)本宿村鎮守。社殿裏の山が実は貴重な上円下方墳という形式の古墳。考古学的には貴重らしい。ただ、神社は江戸期に現在の位置に移転したようであるため、神社と古墳との関係があるかは不明。本宿の山車小屋は古墳を削って作っちゃっているので、移転するといううわさあり。
2)本町の小名、矢崎の部落鎮守。競馬場の西側にある。
くらやみ祭・暗闇祭(くらやみまつり) 
東京都府中市の大国魂神社例大祭のこと。
本ページの最大のテーマでもある。
車返(くるまがえし)・車返村(くるまがえしむら) 
府中市内。元は車返村という村落だった。八幡神社を氏神とする。三之宮講中。
警固(けいご)・警固提灯(けいごちょうちん) 
1)提灯の種類のこと。いわゆる警護ではなく、祭りの場で「けいご」といえば、行列を先導する大きな提灯で、前面には宮名や町名等が入る。
なお、この警固提灯の中でサイズが大きい物を「大警固」(おおけいご)と呼ぶ。
 
行列では、この警固が仕切りとなり、この警固の列の正面に立つのは失礼とされる。また、警固提灯の列の間を通り抜けることは許されず、必ず両端を通行することになっている。
喧嘩の際には、警固提灯を上に高く差し上げ、喧嘩が始まったことを知らせる。逆に言うと、安易に上げてはいけない大事な関門の役目をする。
太鼓の上にはこの警固提灯を持った者が二名乗り、見張りの役をする。現在では、おいでの際の太鼓の定位置が定められているため、見張りの意味はあまりないが、過去には定位置が決められておらず、これが騒動の元となったようである。
また、他の役割として、太鼓を叩く間にこの警固を皮面の中心に下げ「オーライ」という掛け声を掛けて、叩き手に太鼓の中心を教えるのに役立っていた。
これも、暗闇祭りが本当に暗闇で行われてた頃の名残であるが、そうでもしないことには真っ暗な中で太鼓を叩くことも大変だったのだろう。
 
警固提灯を奉持して歩く際、弓の先をアスファルトで削りながら歩いている様も見かけるが、これはみっともないことである。昔から警固提灯を地面に引きずって歩くのは良くないとされる。昔の人はけして引きずるような真似はしなかったし、また、そういうことをするとたしなめられたもの。現在も心得ある人は引きずったりはしていない。
また、警固提灯の奉持の仕方だが、弓の上部の竹ざお部分を奉持する。この握り方が、持った提灯をそのまま提灯を振り上げたときに、提灯を頭上に振りかぶるよう(そのまま振り下ろすと相手をひっぱたけてしまうような)な握り方をするのは良くないとされる。
特に、太鼓の上乗りがこの形で提灯を持つと、上げ下ろしの際に提灯をあおるような形になることが多く、これは相手と喧嘩をして叩き合うような形になることから「喧嘩警固」と言って、相手に対し攻撃を示す、あるいは喧嘩支度を整えている形に通じるため、通常は良くないとされる。
この喧嘩警固の握り方の説明は文章だけでは難しいが、良いのは警固堤燈を持った際に、親指が上方にくる形である。喧嘩警固とは、親指が下方を向く形で持つことで、ちょうど剣道で竹刀を下段に構えたときのような形になる。
剣を下段で構えると同様、振りかぶれば相手を撃つ姿勢となることから、喧嘩の時の形=喧嘩警固とされる。
2)警固提灯を持つ人のこと。

用例:「おおーい!警固!もうちっとゆっくり行こうや〜!」(警固の人たち、もう少しゆっくり歩いてください。)「警固入れろ警固!!」(太鼓の上の警固役の方、掛け声を入れてください)等。

欅若連(けやきわかれん) 
府中囃子保存会欅若連支部のこと。町内を持たない同好会で、山車を新調する際には会員の手で作り上げるなど、手作りの味を大切にした活動をしている。
喧嘩(けんか) 
祭の喧嘩(けんか)は昔から後を引かないというのが決まり。
祭の喧嘩を、あとになってもウジウジ言うのは良くない。とされる。
昔から、暗闇祭りでは喧嘩も多く、死人が出るケースもあった。おいでの時等は、他の宮と喧嘩となった場合は警固を上にあげ、関門が開く。昔の人は警固が上 がると、要所要所に隠しておいた青竹(竹槍)を取りに行ったという。それで殴り合う、あるいは突き合うのだから恐ろしい。また、喧嘩になると、六尺ふんど し一本の姿となって、鉄棒を振り回しながら突っ込んでいく猛者もいたとか。
特にいわゆる三国人や競馬場建設当時などの、人足が多く入り込んでいた時期には大変だったという。
喧嘩のエピソードはそれこそ山ほどあると思うが、聞いた話をいくつか紹介する。
一つは、番場を中心とした町が、御本社と一之宮を隔年分担していた当時、御本社がやられているということを聞いて、一之宮を担当していた連中は神輿を下ろして、救援に行ったという。
筆者の手もとに、最近いただいた、四之宮神輿と五六之宮太鼓と思われる太鼓の喧嘩の写真がある。これは昭和30年頃という古い写真だそうだが、神輿は太鼓に突っ込むようになっており、太鼓に上がっている人間の持つ警固は弓だけになっている。
太鼓の上ばかりか、神輿の上にも何人かの男がよじ登り、怒声を上げている図で、その周辺は手丸堤燈を持った男で埋め尽くされており、やはり壊れた手丸もいくつも見受けられるといった様子だ。ただ、面白いことに、周辺には警官の姿も見られるが積極的に介入しようとする様子は無い。出所が不明なのでHPでは使えないのだが、それが実に惜しく感じられるいい写真である。
また、太皷の喧嘩の話で、太鼓の喧嘩は太皷同士をぶつけ合う激しいもので、一つには、この喧嘩で競り勝つために太皷が巨大化したといってもいい。町の威勢を示すというだけではなく、実戦的理由がここにある。
太皷同士の喧嘩となった場合、素早く相手に尻を向け、そのまま相手の太皷にぶつける。特に、鏡と呼ぶ太皷の皮面にたいして垂直にぶつけると、相手の太皷が台車から転げ落ちることにもなった。太皷が転がれば当然上乗りも落ちることになり、それはそれは荒っぽいものだったそうだ。
また、太皷に載る上乗り同士では、警固提灯でひっぱたきあい(まさに喧嘩警固)、時には相手を弓で引っかけて下に落とす。上乗りも昔は何人もが警固を持って太鼓にあがり、それはそれは綺麗だったそうだが、結局武器になるので上乗りの使う警固は2本に限定されたとのことである。
特に、番場と新宿は折り合いが悪かったそうで、確かに今でもその名残はある。
おいでの時には五六の太鼓(新宿)と御本社の太鼓(番場)は前後して行列を組むのだが、毎年のように喧嘩をしていたそうだ。特に大鳥居を出たところでよく喧嘩したという話を聞く。
鳥居を出たところで太鼓の頭を回し、台車の尻を相手に向ける。つまり、「かかって来い」あるいは「行くぞ」ということなのだという。このあとは先述のとおり太鼓をぶつけ合い、殴りあうことになる。
また、おかえりのときに、新宿は先代の山車の破風を外し、押し出してきたことがあったという話もある。なぜお帰りかはわからないが、おいでの時になにか遺恨が残るようなことがあったのだろう。
神戸(ごうど)・神戸町(ごうどちょう) 
番場の東。お宮から府中街道と甲州街道の交差点にかけての、甲州街道沿いの町。番場宿の小名として古地図に載っている。
江戸期の地図を見ると神人などが住み、さらに昔は菊池山栽説によると、元は延喜式に見られる大麻止乃豆乃天神(オホマトノヅノアマツカミノヤシロ)に与えられた封戸(フコ:食封をあてられた課戸。神社の土地を耕して、作物を納める。律令制で神社に与えられた小作人の家といったところか。)の集落ではないか?というが定かではない。
講中(こうじゅう) 
講中とはいわゆる「講」の組織。一種の信仰の集団でである。
大国魂神社の祭礼においては、密接な氏子地域としての「四カ町」と、他地域から集まってくる人々の集団「講中」という組織が協力し合って成り立っている。
大国魂神社の直接の氏子である四カ町住人を主に町内と呼び、それ以外の区域の住民を講中と呼ぶ。講中として府中の祭りにくる人々は、大国魂神社以外に自分たちの住居地に氏神様・鎮守様となる神社を持ち、そちらはそちらでお祭りをしていながら府中のお祭りにも参加しているもので、当然のことながら一種の客分的扱いをされることが多い。
講中と町内の関係は各宮によっても異なるが、一般的に町内が中心となり、各講中が町内に協力して祭礼は運営されている。ただし、また逆の例もあり、古くは太鼓は太鼓講中のものであるため、太鼓講中がこなければ太鼓に手を触れることができなかったというケースもある。これは、太鼓を作ったのが講中であるため、その運行は講中の責任で行われるためである。
合法ドラッグ Japan(ごうほうどらっぐ じゃぱん) 
通称日本酒ともいわれる。とても危険な飲み物。
小金井小次郎(こがねいこじろう) 
多摩郡下小金井村鴨下の名主、関家六代目勘右衛門の次男。三多摩と相模にまたがって3000人の子分をもっていたという侠客。新門辰五郎の兄弟分。
小次郎は13歳ほどで親の金を持ち出して勘当され、無宿人となった。その後、府中の万吉にかわいがられたという。藤屋万吉とも呼ばれるこの親分は、当時は関東一といわれた府中の高市ばかりでなく、現在の川崎横浜あたりまで縄張りを持っていた。
万吉の子分と共に小次郎が、小平堀端の田折の与惣兵衛一家を二塚明神にて襲い、数名を殺害した。その足で草鞋を履いた。
3年後に房州で捕縛され、人足寄場に入れられた。ここで、新門辰五郎と出会い、兄弟分となる。辰五郎は火事場の喧嘩出入りで刃傷沙汰を起こし、収容されていたものという。
弘化3年の正月、本郷から出火。火は瞬く間に下町まで広がり、人足寄場も類焼しかけたが、新門辰五郎は火消しの本領を発揮。役人への進言を行い、小次郎と2人で油倉の目留めをした。この2人の活躍により寄場は火を免れて、その功によって特赦を得る。
特赦により釈放された小次郎は、小次郎の服役中に遠島となっていた府中の万吉の跡目を継いで3000人の子分を持つにいたる。
親分として10年を過ごした頃、当時禁止であった勧進相撲を興行。結果、たまたま風邪をひいて寝込んでいたところを、八州廻りに捕縛され、賭博の罪で、翌年三宅島へ流された。
流罪となった小次郎は三宅島で流人たちを動員して、島の水不足対策のために貯水槽を造るなど、功績を上げる。この貯水槽の目地に使った漆喰は、新門辰五郎や博徒仲間に頼んで送ってもらったものだという。
この小次郎によって作られた貯水槽は、昭和40年頃に簡易水道が完備するまで使用されていたという。
小次郎が流されて12年後に幕府が大政奉還。その折の特赦によって、貯水槽の功もあった小次郎は赦免となる。
小次郎は明治14年63歳で大往生。小金井市の墓所に葬られた。
ちなみに、新門辰五郎を介して小次郎の兄貴分となる清水次郎長は、明治維新達成 に徳川慶喜公とともに駿府へやって来た御家人のために富士山麓の開墾をやってい ほか、日本初の英語学校を開くなど、小金井小次郎が三宅島で行った善行と同様、 世の中に貢献をしているのが面白い。ヤクザ者とはいっても現代のそれとは趣を異にしているといえよう。
国府八幡宮(こくふはちまんぐう) 
現在の八幡町、旧八幡宿村に鎮座。八幡宿村鎮守であり、大国魂神社の境外摂社。例祭は八月。
古式競馬祭(こしきけいばさい) 
駒くらべのこと。駒くらべの項を参照。
輿守(こしもり) 
1)各宮に1人、神輿の番人としてつく役割の人。御旅所の中では寒さに耐え、夜も眠れず神輿に常に張り付いているという大変な役割。
輿守は蔵がないと出来ないのだという。要は神輿に何かあれば弁償しなくてはならないという意味があり、経済力が必要だということ。
2)元は神輿の管理をすべて任されていた神人。神輿の保管もこの輿守の宅にて行っていたらしい。
コトブキビリヤード(ことぶきびりやーど) 
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こば(こば) 
「角(机や柱等の)」の意。
五之宮(ごのみや) 
1)五之宮神輿 明治33年に製作された。新宿が分担。
詳細はこちら
六所巡り 四之宮・五之宮編
2)武蔵総社五之宮。児玉郡神川町に鎮座する金鑚神社。例祭は4月15日。
詳細はこちら
六所巡り 四之宮・五之宮編
駒くらべ(こまくらべ) 
古式競馬式のこと。毎年5月3日の夜に、大国魂神社の参道である馬場大門欅並木にて行われる。この行事は、四ヶ町が各一頭の馬を出し、一之駒(いちのこま)から四之駒(よのこま)までの計4頭の馬を走らせる。
過去においては4頭ではなくもっと多くの馬を走らせていた時期があるとか。
平成十九年より馬が六頭に増えた。
この馬鹿(このばか) 
祭の時によく用いる二人称。親愛を込めて言う。
しかし、時折本気で馬鹿にしていることもあるので注意が必要。

用例:「この馬鹿のしょんべんが、なげぇから、時間に遅れっちゃったのよ。」(この方がお手洗いに行っていたので、時間に遅れてしまいました)

御本社(ごほんしゃ) 
御本社神輿。番場を元講とする五カ町が分担。現在は主に番場、西馬場、屋敷分で担当。
大国魂神社の主祭神「大国主尊」のお神輿。現在の神輿は昭和48年に新調。欅材で作られており、白木の神輿である。
詳細はこちら
御本社太鼓講中(ごほんしゃたいここうじゅう) 
御本社の太鼓講中。現在は小金井の貫井を中心に、小平市の上鈴木、堀端鈴木、小川新田、鈴木新田、新座市の片山の計6つの講中から構成されている。
また、古くはこの他に、大泉村(練馬)、神代村(調布)、都築郡石川村保木(横浜)等々、多くの地域から集まっていた。
現在、御本社太鼓講中として実際に参加しているのは6つの講中だが、太鼓の上乗りが使う大警固には以下の講中名が残っている。
小金井貫井     : 東京都小金井市
小平市廻り新田   : 東京都小平市
小平上鈴木     : 東京都小平市
小平堀端鈴木    : 東京都小平市
小平下鈴木     : 東京都小平市
小平小川山谷    : 東京都小平市
小平小川新田    : 東京都小平市
小平通り野中    : 東京都小平市
小平堀端野中    : 東京都小平市
都築郡山内村石川  : 神奈川県横浜市青葉区
都築郡元石川町保木 : 神奈川県横浜市青葉区
都築郡向岳村平   : 神奈川県川崎市
大泉村小樽     : 東京都練馬区
埼玉県片山村栗原  : 埼玉県新座市
神代村入間     : 東京都調布市
保谷町下保谷    : 西東京市
小平大沼田新田   : 東京都小平市

貫井は小金井市の貫井で、太鼓講中の元講をなす。太鼓長は貫井が務めている。大祭の前には講中周りという行事を行うが、御本社太鼓講中には番場から貫井へ使者が赴き、それを受けて貫井から各講中へと使者が走ったのだということである。
 
小平の各講中がある鈴木新田は貫井を親村として開拓された村であり、その名の通り貫井の名主の鈴木氏が中心となって開発したものらしい。上鈴木、下鈴木、堀端鈴木などがこれに含まれ、その縁もあって参加しているものと考えられる。講中の組織が広がる過程はさまざまであろうが、親類や姻戚等の縁故を伝ってゆく場合が多いと推察される。親子関係のある村の場合、そういった親類が住んでいる場合も多々あるであろうから、元講となった貫井からこの辺の縁故関係を中心に広がっていたものと考えられる。また、小川や野中といった地域は先述の上鈴木とも近く、また江戸期に玉川上水が開通したことによって開発された村という点で共通性が多く、これもまた非常に交流の起こりやすい地域であったと推察される。
 
都築郡元石川町保木は現在のたまプラーザ駅の近くで、このあたりの鎮守は十社宮である。ここには「保木の大太鼓」と称するする太鼓があり、これは地域の人が御本社太鼓講中として府中に来るうちに、刺激を受けて作られたものと考えられる。
一部ネット上などの記述で、この保木の大太鼓が大国魂神社例大祭に参加していたという記述があるが、これは間違いである。あくまで地域の人たちが講中として御本社太鼓に参加していただけで、この太鼓を持ってきていたという事実は無い。
 
都築郡山内村石川も元石川町保木とほぼ同じ地域を指すと考えられる。
 
都築郡向岳村平は調べたところ、都築郡に該当する村名を見つけることは出来ず、提灯への記載ミス等を考慮して検索範囲を広げた結果、橘樹郡(たちばな)の向丘村(むかおかむら)の平地区と推定できた。古くは平村と呼ばれて一村をなし、その後合併により向丘村平となった。向丘村はいまの川崎市の高津区、多摩区、宮前区にまたがる地域で、向ヶ丘遊園(すでに閉園)は元々は向丘村の名からとったものである。
 
大泉村小樽と書かれているのは東京都練馬区、いまの大泉学園のあたり、西大泉に小榑村(こぐれむら)という村があり、この地域であろうと推察される。この地域は埼玉県の新座市に隣接した地域で、一時は新座郡(にいくらぐん)に属していたこともある。
 
埼玉県片山村栗原は、いまの埼玉県新座市でここにはまだ栗原の地名が残る。西東京市に隣接し、練馬とも近い。
 
保谷町下保谷はいまの西東京市で、以前は保谷市だった。ここは先述の片山村栗原や大泉とも近い位置になる。
詳細はこちら
ごみ箱(ごみばこ) 
ごみを捨てる箱。府中方式は大きな鉄の箱が町においてあり、燃えるごみは青い箱、燃えないごみはオレンジの箱に入れる。最近はそのそばに資源ごみの回収の箱があったりもする。便利なせいか、他市から車で捨てに来るほど人気があるとか。まったく困ったものである・・・というより、来るんじゃね〜よ!ばかやろう!・・・と思うのが人情であろう。
で、なぜこの用語集に登場するかというと、これを叩く、あるいは蹴飛ばすと大太鼓と同じような音がするのである。子供のお祭りごっこのアイテムとして秀逸。できれば竹ボウキを傍に備えておいてくれると実にありがたい。
御霊宮(ごりょうぐう・ごれいのみや) 
御霊宮神輿。明治30年頃新調。一説によると素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭る。分担は本町中組。御霊宮の古い神輿は八幡宿の原で掛け合いで壊されてしまったという。
正式には「ごりょうぐう」というが、「ごれいのみや」あるいは「ごれい」と通称される。「御霊(ごりょう)」とは怨念をもって死んだ人の霊魂で、疫病をもたらすとされ、御霊を祀ることで疫病を除けようとするものである。
日本では、古くは死者の霊というものを極度に恐れ、特に無残な死に方をしたものの祟りを恐れる傾向があった。王権・政権の簒奪が行われ、無残な死を遂げた以前の権力者を手厚く祀り、あるいは徹底的に封じ込めようとしたばかりでなく、通常の死者に対しても、それが甦らぬように封じ込めるような形態で墓を作った。このような下地があり、それが時代の変遷で御霊信仰になっていたものと思われる。
この「御霊」というものには8という数字がひとつのキーワードとなっているようで、素戔嗚尊の御子は八柱とされ、同神とされる牛頭天王の祭られる神社は「八坂神社」「八雲神社」という社号が多い。
なお、素戔嗚尊は八岐大蛇(やまたのおろち)を退治しており、その際に助けた稲田姫命(いなたひめのみこと)は、佐久佐女の森の大杉を中心に八重垣(やえがき)を造って隠したという。
また、京都の上御霊神社、下御霊神社の祭神はどちらも八柱。
そして御霊宮神輿に御旅所であげられる御膳は他の神輿が2膳であるのに対し、8膳である。この点、ひとつのつながりがあり、なかなか面白い。
このくらやみ祭りにおける御霊宮については、御霊信仰のいわば怨霊に対する信仰を元にしたお祭りがくらやみ祭とはべつにあり、それがいつしかくらやみ祭に合わさったものという。その元あったお祭りというのは、一説によると7月のすもも祭りにあたると指摘する説もあり、これは祇園会等の疫病除けのお祭りが7月を中心に行われることなどからそう言われるものであろう。
例えば、八坂神社・八雲神社を称する神社のお祭りは、京都の祇園祭をはじめ、祇園会・天王祭と称される場合が多く、疫病除けを目的として、古来より疫病が流行りやすかった夏場(7月頃)に行われることを特徴とする。このことから、すもも祭りも古くは一種の祇園会であった可能性があるといえる。
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是政(これまさ) 
現在の競馬場から南の辺り。是政村。井田是政の名に由来し、部落鎮守として八幡神社をまつる。

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